北朝鮮の最高指導者、金正日(キム・ジョンイル)。彼の私生活は徹底的にベールに包まれている。客観的な資料は存在しないが、彼の私生活を覗き見れる立場にあった複数の人物が様々な証言を残している。それらを照らし合わせた結果からすると、証言の信憑性は高いと言えよう。
還暦を過ぎ、後継者選びを進めるべき年齢となった金正日。しかし、権力への執着が強すぎる上に、女性関係が複雑過ぎて、前に進めずにいるようだ。そこで、女性関係から人間金正日に迫ってみた。
父親の金日成(キム・イルソン)は、外交行事に妻の金聖愛(キム・ソンエ)を同伴させなかったが、その点では息子の金正日も同じだ。しかし、父親と異なるのは、複雑過ぎる女性関係による点だ。
存在意味のない正妻、金英淑
金正日の公式の妻は、金英淑(キム・ヨンスク)だ。咸鏡北道(ハムギョンブクト)安全局の電話交換手だった彼女は、抜擢されて平壌の朝鮮労働党の中央党(中央本部)のタイピストとなった。1974年、2人は結婚し、雪松(ソルソン)、春松(チュンソン)という名の娘を授かった。祖父・金日成が名付け親となった。
しかし、この結婚は金日成が進めたものだった。金正日にとって金英淑は、最高指導者金日成のお墨付きを得たということを除けば、全く意味のない存在だった。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面金正日の官邸に住み、長男の金正男の家庭教師を務め、後に金正日の義姉となった成蕙琅(ソン・ヘラン)は、著書「藤の家」で、金英淑について次のように書いている。
「金英淑には、父(金日成)により合法化された女性という意味しかない。家系は公民証(身分証明証)にも記されていない。法的手続きもなければ、文書もない」
「誰を妻として認めるかは、法の上に君臨している、最高指導者である自分(金正日)だけだ」
金正日と成恵琳の略奪愛
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面金正日には、金英淑との結婚前から長年付き合っていた女性がいた。それが、成恵琳(ソン・ヘリム)だ。今の韓国にあたる慶尚南道(キョンサンナムド)出身の彼女は、朝鮮戦争のときに両親と共に北朝鮮に移住し、有名女優となった。後に、金日成総合大学講師の李平と出会い結婚、娘を授かった。
共通の友人の紹介で出会った金正日と成恵琳は、禁断の恋に落ち、1969年から平壌の中城洞(チュンソンドン)の15号官邸で、不倫同棲生活を始めた。金正日29歳、成恵琳34歳の頃だった。彼女は1971年、高級幹部専門病院の烽火診療所で、金正日の長男、金正男(キム・ジョンナム)を生んだ。夫の李平とは離婚させられていた。
金正日と成恵琳の愛の日々は、金正日の妹金慶姫(キム・ギョンヒ)のこんな一言で終演を迎えた。「息子(金正男)を置いて出て行け」。金正日の寵愛を失った彼女は、やがて極度のうつ病に陥った。1974年にモスクワに移住し療養生活を送っていたが、2002年に他界した。63歳だった。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面【関連記事】 金正日の内縁の妻、成恵琳と高ヨンヒとは?【上】
金正恩を産むも、正妻になれなかった高ヨンヒ
金正日と最も長い間共に過ごし、事実上のファーストレディとなった女性は、高ヨンヒ。元在日朝鮮人の高太文(別名高ギョンテク)の娘として、1953年に大阪で生まれた。
1962年に北朝鮮に帰国した後は、万寿台芸術団の舞踊団員として活動していた。1970年代中盤、金正日の目に留まり、秘密パーティの固定パートナーを経て、同棲するようになった。彼女はついぞ正妻にはなれなかったが、金正日の心を最も長くつなぎとめた人だった。2004年6月、ガンの治療を受けていたフランスのパリで52歳の若さで亡くなった。
(関連記事:ベールを脱いだ金正恩氏「出生の秘密」生母の墓と大阪・鶴橋)金正日は、高ヨンヒとの間に正哲(ジョンチョル)と正恩(ジョンウン)という名の2人の息子をもうけた。2004年5月ごろから、ある女性が「尊敬するお母様」として偶像化が始まり、肖像画が掲げられ、政治講演会の資料にも登場するようになったが、これは高ヨンヒと見て間違いないだろう。
また、北朝鮮国内では、後継者として正恩に注目が集まっているとの見方が有力だが、金正日は後継者について一切語っていない。
国家安全規格部(旧中央情報部)で北朝鮮調査団長を務めたソン・ボンソン氏によると、高ヨンヒは丸顔の美人で、金正日のタイプと言われていると述べた。
また、韓国の女優で、北朝鮮に拉致され、後に脱北に成功した崔銀姫(チェ・ウニ)氏も、1978年に金正日の自宅で開かれた誕生日パーティの場で、「家内」と紹介された女性(成恵琳と推定される)は、丸顔の美人だったと明かした。
さらに、金正日の料理人だった藤本健二氏は、金正日は日本の女優の中では、吉永小百合が一番きれいだと言っていたと述べている。
女優、タイピスト、大使の妻を愛人に
金亨稷師範大学の学長で最高人民会議の代議員の洪一茜(ホン・イルチョン)が金正日の最初の妻とする説もあるが、それを証言した人の社会的地位、北朝鮮の高官の中でこのことを知っている人が誰もいないことを考えると、証言の信憑性は高くない。また、金正日との関係が破綻した後にも、社会的地位を保つことは、北朝鮮体制の性質上、考えにくい。
金正日はこの3人の女性以外にも、若い頃から多くの女性たちと関係を持ってきたという。
ソン・ボンソン氏は脱北者の証言と、外信報道を根拠として、ロシアに駐在していたソン・ソンピルの妹、ソン・ヒリム、女優で映画「花を売る乙女」のヒロインとなった洪英姫(ホン・ヨンヒ)、駐チュニジア大使の妻リ・サンジンなどを、金正日の愛人として挙げた。
さらには短期間ながら同棲生活を送った万寿台芸術団の舞踊家、巧芸組、俳優、官邸担当の看護婦、金正日の執務室のタイピストなども挙げられる。
(参考記事:金正日の「女性に対する特別な趣向」見せた大紅湍事件)外国の女性まで連れて来て、平壌で秘密パーティ
成蕙琳(ソン・ヘラン)の甥で、1982年に韓国に亡命し、金正日の私生活を暴露し謎の死を遂げた李韓永(イ・ハニョン、旧名李一男)は、著書「金正日ロイヤルファミリー」に次のように記している。
「なんとかして金正日を喜ばそうと考えた取り巻き連中は、北朝鮮女性だけのパーティでは足りないと思った。そこで、外国から女性を連れてきた。契約して来た者もいれば、拉致されてきた者もいた。彼女らはタイ、フィリピン、中東出身だった」
また、日本の「文藝春秋」は、1992年3月号で、1980年代にある日本女性が、タイ女性と共に北朝鮮に渡航し、金正日のパーティでお酌をした経験談を語った。
さらに、崔銀姫氏は手記「金正日の王国」で、北朝鮮で拉致されて外国人女性がパーティの場で「金正日のパーティに何度も駆り出されてばかりいる、もう国に返してもらえない」と泣きながら訴えたと記している。
(参考記事:標的は「妻の甥」…金正日氏が命じた脱北者「暗殺」作戦)金正日のプライバシーの暴露は収容所行き、敏感な事案は公開処刑
金正日の私生活は徹底して秘密に付されている。
金正日の私生活を立場にある親衛隊(警護部隊)と、幹部5課(側近、官邸勤務者)は、北朝鮮国民なら誰でも持っている公民証(身分証明書)を持たせてもらえない。豊かな暮らしと引き換えに、自由を奪われ、社会から完全に隔離されているのだ。金正日の秘密を漏らしでもすれば、収容所送り、さらには秘密裏に処刑されることすらある。
(参考記事:【金正日研究】その性格と心理)最高指導者の女性関係と指導力は関係がないと言う人もいる。また、指導者の女性関係をあげつらい、道徳的に問題視することは正しくないと指摘するひともいる。指導者の道徳性と統治力をここで語る必要はない。
ただ、最高指導者が権力を利用して、他人の妻を強制離婚させて略奪したり、関係が知られることを恐れて数多くの芸術家を収容所送りにしたりしたことは、非難されて当然だ。金正日の女性関係の犠牲者とも言えるのが、女優の禹仁姫(ウ・イニ)だ。
60〜70年代に北朝鮮の銀幕スターだった禹仁姫。映画監督のリュ・ホソンと結婚し、3人の子どもを儲けたものの、在日朝鮮人の青年との不倫関係を結んでいた。ところがある日、2人は車の中で関係に及んだが、そのまま寝入ってしまったため、青年がガス中毒死してしまった。
(関連記事:機関銃でズタズタに…金正日氏に「口封じ」で殺された美人女優の悲劇)私生活の秘密維持のため、多くの人を犠牲に
この事件をきっかけに、2人の関係が世間に知れわたり、禹仁姫を非難する声が高まった。当局から呼び出され取り調べを受けた彼女は、今まで関係を持った党、軍、撮影所の幹部数十人の名前を出した。そして、「金正日同志に会わせて欲しい」と懇願した。禹仁姫との関係が知られることを恐れた金正日は、銃殺を命じた。
「人民俳優禹仁姫は浮華放蕩罪を犯した、人民の名の下、銃殺刑に処す」
映画関係者が見守る中、最期の最期まで「指導者同志(金正日)に会わせてほしい」と口にしていたが、その願いが聞き入れられることはなく、刑場の露と消えた。
最高指導者である金正日は、自らの無限の権力で女性を弄び、秘密維持のために多くの人の命を奪った。李韓永の暗殺が、金正日の指示ということは、夫婦スパイのチェ・ジョンナム、カン・ヨンジョンの陳述で明らかになっている。
金正日は政治のみならず、女性関係でも権力を利用して、他人の家庭を破綻させ、多くの人びとを苦しめた。彼の女性関係について語ることは、単なるゴシップではないのだ。
この記事は2005年5月7日に掲載されたものです。
【関連記事】
将軍様の特別な遊戯「喜び組」の実体を徹底解剖
金正日の内縁の妻、成恵琳と高ヨンヒとは?