北朝鮮の最高指導者だった故金正日総書記は、派手な女性遍歴で知られる。明らかになっているだけでも5人の女性が彼の妻(あるいは愛人)となり、うち4人が彼の子どもを生んでいる。それでも飽き足らず、国中から美女を集めて「喜び組」を作ったのも周知のとおりだ。

金正日氏が、妻たち以外に何人の女性と関係を持っていたかについては、推測に基づく数字すら出ていない。

彼の妻のひとりであるソン・ヘリムの甥で、1982年に韓国に亡命、1997年に金正日の指示で派遣された工作員に暗殺された李韓永(イ・ハニョン、旧名李一男)は生前、金正日のそばには常に「◯◯宅」(◯◯夫人)と呼ばれる女性らが入れ代わり立ち代わり寄り添っていて、いったい何人の女性と付きあってきたのかわからないと証言している。

その中の1人が、絶世の美女と言われた女優の禹仁姫(ウ・イニ)氏だった。

60〜70年代の北朝鮮映画界にトップスターとして君臨し、著名な脚本家である夫のリュ・ホソンとの間に2人あるいは3人の娘をもうけていた。

禹仁姫(ウ・イニ)氏は、非常に開放的な性格の女性だったという。そして、高級幹部や裕福な日本からの帰国者たちの間では、彼女と様々な男性の噂が絶えなかった。

その相手の1人が、日本出身の帰国者で、平壌市普通江(ポトンガン)区域新原洞(シノンドン)に住んでいたA氏だ。彼の父親は在日本朝鮮人総連合会系の商工団体幹部だった。

一説によると、父親はトラブルメーカーだった息子の性根を叩き直したい一心で、金日成主席に頼み込み、A氏を北朝鮮に送り込んだと伝えられている。

すべてを「酒と女」に

一方、脱北者で、朝鮮日報の記者を務めた姜哲煥(カン・チョラン)氏はA氏の「ドラ息子説」を否定している。

京都に住んでいた姜氏の家族は、A氏と同じ船に乗って帰国した縁で親しく付き合い、とくに姜氏の伯父は、金日成総合大学哲学科でA氏と同期だったという。A氏は誠実かつ勉強熱心で、誰よりも北朝鮮での暮らしに適応していたと姜氏は語っている。

ところが、父親が甘やかしたからか、北朝鮮での暮らしが予想以上にストレスの強いものだったからか、A氏は徐々に堕落していったという。金日成氏からもらった平壌市内の高給マンションに住み、父親から送られてくる生活費はすべて酒と女に費やしていた。

「高級服」で誘い出す

金日成氏はより多くの外貨を確保するために、日本からの帰国者に限り、自家用車の所有を認めた。A氏は父親のカネで買ったベンツを乗り回していた。また、彼の父親が、北朝鮮の放送設備を最新式の日本製に入れ替えたことへの褒美として、A氏は朝鮮中央テレビの技術部長のポストに就けられた。放送技術については全くの門外漢だったにもかかわらずだ。

A氏は1980年2月、外貨商店で売られていた高級服をネタにして禹仁姫氏を誘い出した。そして2人は、中央テレビの駐車場に停めたベンツの車内で事におよんだ。事はあっさりと終わり、2人はヒーターをつけっぱなしにした状態で眠り込んでしまった。

翌朝、A氏が姿を見せないことに気づいた局員が表に出た。そして、駐車場に停められた車の中で、半裸のA氏が死んでいるのを発見した。隣にいた禹仁姫氏は、病院に運ばれ、なんとか一命をとりとめた。

A氏の父親は「うちの息子を生きて返せ。さもなくば資金提供をやめる」と言って激怒したと伝えられている。

父にバレるのを恐れ

健康を取り戻した禹仁姫氏は、取り調べを受けることになった。

ところが彼女の口からはは、それまでに関係を持ったという党、軍、撮影所の幹部ら数十人の名前が次から次へと出てきた。そして、「金正日同志に会わせてほしい」と繰り返し懇願した。金正日氏の名前を出せば、彼が助けてくれると思ったのだろう。

一方の金正日氏は、禹仁姫氏との関係が父である金日成氏にバレることを恐れていた。同時に成蕙琳氏と高ヨンヒ氏も、放っておけばいつ禹仁姫のようなことをするかわからないと考えるようになった。

後継者に指名され、多忙を極めていた彼は、3人の女性を「管理」するのは無理だと考えたのだ。

恐怖に駆られた金正日氏は禹仁姫氏を処刑することにした。そして、それをほかの2人の女性に見せれば、恐ろしくなり、おとなしくするだろうと考えたのだ。

禹仁姫氏は「浮華罪(スキャンダル罪)」という罪状で、映画界や芸術関係者が見守る中で銃殺された。

姜哲煥氏は、韓国の朝鮮日報の記事に、次のように記している。

実際にこの処刑を目撃した脱北者が2人いる。ダンサーのシン・ヨンヒと北朝鮮第2科学出版社政治扇動部で記者を務めていたキム・ギルソンだ。

何のことかわからないまま集められた人々は、禹仁姫氏の姿を見て唖然とした。やがて「裁判」の名の下に罪状の読み上げが始まり、彼女は、夫と娘の目の前で自動小銃で銃殺された。あまりに酷い有様に、夫と娘はそれから数日、魂が抜けたようにぼーっとしていたという。

禹仁姫氏の娘のその後について詳細はわかっていないが「私は党を裏切った母とは違って、党に生涯、忠誠を尽くす」と誓い、地方の工場への追放を受け入れたという説がある。それとは別に、「芸術家として暮らしている」という説もある。

夫のリュ・ホソンは、妻が銃殺されるのを目の当たりにして、気を失ったと伝えられている。妻の浮気に耐えかねて何度も離婚しようとしたが、なかなか認められずに臍(ほぞ)を噛む思いをしていたところで、妻は銃殺されたのだ。

彼は地方に送られたが、演出家としての優れた才能を惜しんだ金正日氏により平壌に呼び戻された。

北朝鮮を代表するイデオローグで、1997年に韓国に亡命した黄長燁(ファン・ジャンヨプ)元党書記の秘書を務めたキム・ヘスク氏は、著書『悲運を予告する』で、禹仁姫氏の銃殺について次のように描写している。

私たち放送芸術団の団員はバスに乗せられた。ピクニックにでも行くとばかり思っていた。ところが、目の当たりにしたのはあの光景だ。思い出すと未だに身震いがする。

平壌の文化芸術人がすべて集められた。彼女は思想闘争大論争大会の場に立たされていた。傍らには、夫、そして私の友達である彼女の娘2人、家族全員が座らされていた。

「反党、反革命分子、禹仁姫銃殺!」

その日、彼女が着ていたツツジの柄のジャケットは、数十発の銃弾で穴だらけで、血まみれになり、もはや形を留めていなかった。

夫は、銃殺が終わるまで頭を上げることはなかった。反省の弁を述べることを強いられた彼は「よく死んだ」と言った。

ところが長女は「私は母を恨まない。母は何でもよくしてくれた」と語った。

韓国の作家、李清(イ・チョン)は2008年、禹仁姫氏をモデルにして小説『神の女』を著した。

その中ではある放送局員の目を通して、彼女の最期の姿が描写されている。詳細は不明だが、おそらく実際に現場を見た脱北者の証言を元にしたものと思われる。その一部を紹介する。

1980年代の初めの頃だったろうか。いつも通りに出勤してカバンを置いた瞬間に「全員集合」と非常招集がかけられた。

下に降りてみると、インド製のタタのバスが3台停まっていた。目的地の説明はなく、ともかくバスに乗れと言われた。バスは中央放送の局舎を出て、リョンモッ洞の方に向かった。

「どこに連れて行かれるのだろうか」
「さあ…」

すると、音楽組織部の男性が答えた。

「君たち、どこに行くか知らないのかい?」
「え?どこに行くの?」

「親愛する指導者同志(金正日)のご配慮で、最近ソ連から取り寄せた特殊武器を我々だけに見せよという指示を下されたそうだ」
「え?新型武器を見に行くの?」
「そうらしいぜ。さすが指導者同志の大きな恩徳は何物にも比べられないな」

バスは、リョンモッ洞を過ぎ、兄弟山区域へと向かっていた。1時間後、我々は車から降ろされた。

「ここはどこ?」
「さあ…」
「知ってるよ。江健軍官学校の近所だよ。昔、訓練を受けたことがあるんだ」

音楽編成部のキム君は、確かに江健軍官学校に通った経歴を持っていた。除隊してわが局に入局したのは3年前のことだった。

周りは低い山々に囲まれた、小さなトウモロコシ畑。新型武器を見せるにはおおよそふさわしくない場所を見て、おかしいと思った。

その場には文化芸術部はもちろん、出版報道部門の職員も全員集められていた。しかし、何が起きるかを知る者はひとりとしていなかった。

30分後、69型ジープがゆっくりした速度で入ってきた。

そして軍服姿の人が数人降りてきた。すると、その場に白幕を張り始めた。畑の端には、柱が2本立てられていた。

その中に、もう1台の車が入っていった。中で何をしているのかはわからないが、何人かが行ったり来たりしていた。

しばらくすると、判事らしき人物が書類を持って人々の前に立った。

「これから、反党、反革命分子の禹仁姫に対する最終判決が下されます」

人々の間にどよめきが走った。そして、白幕が外された。

あまりに予想外の光景に、皆が言葉を失った。たしかにソ連製の新型武器がそこにはあった。しかし、皆の視線は柱の方に集まった。

濃い土色のツーピースを着た女性が、柱にぐるぐる巻きにされていた。

判事らしき人物が、文書を読み上げ始めた。

「反党、反革命分子の禹仁姫は…」彼女は17歳から不倫をしていた。そして数多くの家庭を破壊した。反党、反社会主義分子につき、死刑に処すとのことだった。

7人ほどの射撃手が現れた。

判事は「3発撃て!」と号令した。3発どころではなかった。1人あたり20発は撃っただろうか。

私は一番前に座っていたが、それでも彼女との距離は100メートルほどあった。彼女の表情は見えなかった。ただ、ボロキレのように変わり果てた姿が柱にくくりつけられていた。彼女の遺体は車に乗せられた。それが私が見た彼女の最期の姿だ。

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