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北朝鮮の抗日パルチザンの歴史で、非常に重要視されているのが「普天堡(ポチョンボ)戦闘」だ。

後に北朝鮮を建国する金日成氏率いる、東北抗日聯軍第1路軍第2軍第6師の90人が1937年6月4日夜、鴨緑江を渡り、当時日本の植民地支配下にあった咸鏡南道(ハムギョンナムド)甲山(カプサン)郡の普天面(ポチョンミョン)保田里(ポジョンリ)を襲撃した。駐在所の巡査の2歳の娘とコック1人を殺害、5人の警察官から小銃5挺と銃弾数百発を強奪、村を襲撃して火を放ち、現金や物資を強奪した。

日本側の記録では、追撃して交戦した結果、日本人ら7人が死亡、14人が負傷し、パルチザン側は20人が死亡したと推定している。驚愕した日本は、翌年から大討伐作戦を行い、パルチザンのほとんどが戦死または捕虜となり、生き残った金日成氏らは、旧ソ連領に逃げ込んだとも言われる。

現在も韓国で発行を続けている東亜日報は、この事件を大きく報じ、それが金日成氏の神格化へと繋がっていく。一方、金日成氏本人は、回顧録「世紀とともに」で次のように記している。

普天堡戦闘は、朝鮮と満州大陸でアジアの帝王のようにふるまっていた日本帝国主義をもののみごとに打ちすえた痛快な戦闘であった。人民革命軍は、朝鮮総督府当局が、治安維持に遺漏なしと大言壮語していた国内に進出し、一つの面所在地の統治機関を一撃のもとに掃討して日本帝国主義者をふるえあがらせた。彼らにしてみれば、青天の霹靂ともいえる打撃であった。「後頭部をガアンと強打せられたる如く」「千日刈った茅一炬に帰せしめた観あり」という当時の軍警当事者の告白がそのことを証明している。

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この事件の評価はさておき、北朝鮮では毎年6月4日、普天堡戦闘勝利記念日として祝い、パルチザンを象徴する「焚き火」を囲んだ集いが行われる。平安南道(ピョンアンナムド)のデイリーNK内部情報筋は、中央からの指示で、道内の大学でも焚き火の集いが開かれたと伝えた。

指示の内容は、祖国解放戦争勝利の日(7月27日の戦勝節、朝鮮戦争の休戦協定締結日)70周年の意味深い今年は、帝国主義勢力に抗った金日成氏の革命の歴史を改めて振り返ることが大切だとして、その前の普天堡戦闘勝利記念日を意味深い日にすべきとしている。

ただ、朝鮮労働党平安南道委員会(道党)は、田植え戦闘がまだ終わっていないとして、すべての大学で焚き火の集いをするのは難しいことから、複数の大学が協力し、人員や資材を集めて合同で焚き火の集いを開くように指示した。

(参考記事:北朝鮮「田植え戦闘中に死者続出」末期症状示す異常な場面

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指示に基づき、平城(ピョンソン)師範大学は、4つの大学と合同で焚き火の集いを行うことにした。夜に行われることもあって、田植え戦闘で疲れ果てた参加者がうつらうつらと居眠りしがちだが、道党はこれを厳しく戒め、社会主義愛国青年同盟のイルクン(幹部)が現場に出向き、その場の空気を高めるようにとの指示も添えた。

この大学では、4日の午後10時から薪に火を付け、焚き火の集いを始めた。ところが、火がすぐに消えてしまったのだ。原因は、薪が充分でなかったからだ。

情報筋によると、大学は参加者の学生に薪を持ち寄るように指示したが、集まった薪だけでは充分ではなく、壊れた机や椅子などを、修理すれば使える備品を薪にしたが、それでも火はすぐに消えてしまった。

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参加させられた学生たちは、暗闇の中で、普天堡戦闘の詩を朗読したり、決議討論を行ったり、スケジュール通りに行事を進めた。

その後、あちこちから不満の声が続出した。薪集めで苦労させられた上に、大切な大学の備品を燃やしてしまったからだ。また、学生の間からは「いいかげん疲れた」との声も上がった。

「こんな思いまでして行事を開かなければならない理由が全くわからない」

1990年代後半の大飢饉「苦難の行軍」以降で最悪と言われる食糧難、物資不足に陥っている北朝鮮、それも最も苦しいポリッコゲ(春窮期)の最終盤に、なぜこんな行事が必要なのか、北朝鮮の人々も疑問に感じるのはごく当たり前のことだろう。

(参考記事:「食べる物が何もない」金正恩の足下で倒れる農民たち

韓流コンテンツに接し、韓国の豊かで自由な生活に憧れを抱く若者を締め付けるために、当局は思想教育を強化しており、今回の行事もその一環だろう。しかし、当の若者からは非常に評判が悪く、むしろ逆効果となっている。

(参考記事:「金正恩の日記帳」が若い建設労働者から嫌われる理由