北朝鮮で開催されている朝鮮労働党第7回大会の重要な焦点として、筆者は、1990年代後半に北朝鮮を襲った未曾有の経済危機、いわゆる「苦難の行軍」を、金正恩氏がどのように総括するのかという問題を指摘した。この出来事がきっかけとなり、北朝鮮の庶民経済がほとんど資本主義化するなど、きわめて大きな変化が起きているからだ。

数十万人から100万人以上の餓死者を生み出したとも言われている「苦難の行軍」は、体制の農業指導の欠陥による慢性的な食糧不足に加え、冷戦構造の崩壊により東側ブロックからの支援を失ったことや、1995年から立て続けに自然災害に見舞われことが主な要因だ。

「核の暴走」の遠因

しかし、この時期の大量餓死は、それを防ぐ手立てがなかったわけではない。実際、北朝鮮当局は国際社会に食糧支援を働きかけていた。その動きをつぶしたのが、実は金日成氏だったと北朝鮮外交に精通した脱北者は明かしている。

この脱北者によると、食糧事情の悪化が顕著になりはじめた1991年、北朝鮮当局は金正日氏の許可を得て、国連世界食糧計画(WFP)の代表団を招請した。WFPは食料事情を視察後、支援に関連する資料を要求するも、北朝鮮の中央統計局は断固拒否。その裏にあったのが金日成氏の意向であり、同氏は「北朝鮮の国家秘密を探り、体制を崩壊させようとする下心を抱いた代表団を引き寄せた」として、実務担当者らに厳罰さえ与えたという。結果として当然、支援は受けられなくなる。

その後も食糧支援に関する提案はタブーとなり、いくら食糧事情が悪化しても、国際社会に助けを求めることが出来なくなった。彼が支援を拒んだ理由は、北朝鮮が海外から食糧支援を受ければ、食糧の自給自足と経済的自立を誇りにしてきた北朝鮮住民を失望させ、国の権威と威信を傷つけるーーすなわち自らの失政を認めることになるからだった。

これに対し、元々支援受け入れに前向きだった金正日氏は、日成氏が死去した翌年の95年、食料支援を受けることを許可する。食糧事情がいっそう悪化していた背景もあると見られるが、その選択には一定の評価を与えることはできる。ただし、それほど状況が悪化するまで、支援受け入れ以外に手を打てなかったことに対する責任は逃れられない。

こうした経緯を踏まえると、金正恩氏が36年ぶりの党大会を開くからには、金日成氏が引き起こし、正日氏が解決できなかった「苦難の行軍」の総括は不可欠のはずだ。しかし、正恩氏が7日に発表した事業総括報告では、都合の良い言い訳のみが並べられている。

苦難の行軍の原因を、米国をはじめとする対立陣営の「政治軍事的圧力と戦争挑発策動」や「経済的封鎖」、そして「自然災害」などの外的要因に求め、金日成氏の失政に関しては一言も述べていない。

そのうえで、金正日氏が先軍政治を実施することによって、経済難を克服したと総括。さらに、「苦難の行軍の時期のように、わが党と人民の前に、自主的人民として尊厳をもって生きるか、再び帝国主義の奴隷になるのかという、死生決断の問題が先鋭に提起されたことはかつてなかった」として、北朝鮮の自主的立場と社会主義建設を進める上で、「苦難の行軍」は不可欠な試金石となったとの認識を示している。

つまり、大量餓死はあくまでも外部勢力と自然災害によってもたらされたものであり、その危機を金正日氏が先軍政治で克服した。その克服の過程で、北朝鮮は団結し、さらに強化されたという都合のいい解釈だ。

金正恩氏が、その権威の源泉として依存する祖父と父親の失政を真っ向から批判するのは、極めて難しい。しかし、北朝鮮の大衆は「苦難の行軍」をサバイバルする過程で「草の根資本主義革命」とも言える流れを作り出し、社会主義体制を確実に浸食してきた。

つまり、金正恩氏が自らの体制を守りたいならば、いずれにせよ「苦難の行軍」を総括するほかないのだ。あるいは、正恩氏による核とミサイルの「暴走」は、総括という「苦行」を恐れるが故の、現実逃避の表れなのかもしれない。

高英起(コウ・ヨンギ)

1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。

脱北者が明かす北朝鮮 (別冊宝島 2516) 北朝鮮ポップスの世界 金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔 (宝島社新書) コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記

    関連記事