根強く囁かれた「アメリカ黒幕説」

北朝鮮が、最近発効した米韓原子力協定に噛みついている。アメリカが韓国に対し、使用済み核燃料の再処理やウラン濃縮を一部認めたことが、韓国の「核兵器開発」につながると言うのだ。その上、アメリカこそが「核拡散の張本人」であるとまで言っている。

まったくの「言いがかり」にしか聞こえない言葉だ。実際、現時点では「言いがかりである」と断言しても差し支えないだろう。

しかし過去には、これが完全なる「言いがかり」とは言えない場面があったのも事実だ。

「知日派」は韓国語がペラペラ

なかなか古くて複雑な歴史なので、身近なとっかかりとして、まずは日本と縁の深い、あるアメリカ人の話から始めてみたい。

アメリカのブッシュ前政権で国防副次官を務めた、リチャード・ローレスという人物がいる。日本で彼を一躍有名にしたのが、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上兵力を送れ)」という言葉だ。イラク戦争の開戦から間もない2003年3月下旬、日本の外交官に対し陸上自衛隊派遣を求めて発せられたとされるもので、国会で数十回にわたり言及された。

ローレスはまた、沖縄の米軍基地再編にも深く関与。退任後は経営コンサルタントとして、日本の鉄道技術輸出などをビジネスにしている。

そんなローレスの言語能力について、永田町の事情通からこんな話を聞いた。

「海兵隊のグアム移転や普天間の移設問題を巡って日米間でガンガン議論していると、時に緊張をほぐす必要が出てくる。何のことはない、皆で一緒に夜の街へ飲みに出るのだ。しかし、彼は日本語がまるでできない。そこで、彼と飲むときは韓国人女性のいる店にいくんだな。初めて見た人間は皆びっくりするんだが、彼は韓国語がペラペラなんだ」

同盟国の「秘密」を暴く

日本のメディアでは「知日派」として紹介されることの少なくないローレスだが、そのキャリアをスタートさせたのは、1970年代はじめの韓国においてだった。

1972年、26歳のときにCIAに採用されたローレスは、カリフォルニア州モントレーにある国防総省外国語学校で韓国語を専攻。当初は外交使節団に加わるなどしてアメリカと韓国を行き来しながら諜報活動を行い、1981年からは駐韓アメリカ大使館に勤務した。このときの肩書きは外交官だったが、本業は言うまでもなく〝スパイ〟である。

韓国に駐在するCIA要員の第一の任務は、何と言っても北朝鮮の動向を探ることだが、それがすべてというわけではない。ローレスが韓国で担ったのは、同盟国の秘密を暴きだすことだった。

韓国は日本と同様、アメリカと強力な軍事同盟を構成している。だが、日本が親米一辺倒であるのと異なり、韓国の歴代政権の中にはアメリカとの間で相当な緊張を抱えたものもあった。

その最たる例が朴正煕政権(1963年~1979年)である。

危険な「大統領公約」

1977年に合衆国大統領に就任し、人権外交を標榜していたジミー・カーターは、民主派に残忍な弾圧を加えた韓国の軍事独裁政権をきわめて不快に思っていて、訪韓の条件として政治犯の釈放を約束させたり、朴正熙による政敵・金大中(後の大統領)への迫害を止めるよう圧力をかけたりしていた。

そんな人権問題における軋轢にも増して韓国政府が警戒していたのが、カーターの選挙公約のひとつでもあった「在韓米軍の撤退」だった。

いまでこそ、韓国は北朝鮮を経済力で圧倒している。軍事面においても、通常戦力においては遥かに優勢だ。

しかし1970年代、ソ連から全面的な支援を受けていた北朝鮮の経済力は韓国と同等、あるいはほんの少し劣る程度であり、軍事力においては韓国を凌駕しているとさえ考えられていた。すなわち、在韓米軍の撤退は朝鮮半島の軍事バランスを崩す、危険な構想だったと言うことができるのだ。

そのような危機に直面して、朴正熙は何を考えたか。巷間囁かれているのが、「一度は放棄した核兵器開発プログラムを再始動させたのではないか」ということだ。

秘密宴会場での惨事

この見立ては、1979年の朴正熙暗殺事件にまでつながる、サスペンス仕立ての〝ストーリー〟として語られている。

1979年10月26日夜、朴正熙は韓国中央情報部(KCIA)の運営していた秘密宴会場の酒席において、腹心のひとりだった金載圭(キム・ジェギュ)KCIA部長の銃撃を受け、絶命した。

暗殺の動機については、民主化を求める学生デモを抑えられない責任を問われ、政権内で追い詰められていた金載圭の一時的な激情であったとする説が有力だ。しかし、金載圭が陸軍保安司令部に逮捕された当初、「私の後ろにはアメリカがいる」などと言っていたこともあり、一部の人々の間では「アメリカ黒幕説」が根強く囁かれてきた。

では、どうしてアメリカが朴正熙を殺す必要があったのかと言えば、「核兵器開発を阻止するためだったのではないか」というのが彼らの主張である。

こうした見立てにこだわる人々にとっては、自説の根拠となる〝状況証拠〟がほかにもふんだんにあるのだ。

対向車線から正面衝突

世界的に著名な理論物理学者、李輝昭(ベンジャミン・リー)博士の「不可解な事故死」もそのうちのひとつに数えられる。

ソウルで生まれ、アメリカの市民権を取得して研究生活を送っていた李輝昭は1977年6月16日、イリノイ州内の高速道路で乗用車を運転中、前方の対向車線から中央分離帯を突破してきた大型トラックに正面衝突されて死亡した。

「実は、李輝昭は朴正熙の要請を容れて核兵器開発に関与し、それを察知したアメリカ政府によって暗殺されたのだ」

1990年代の中頃、韓国ではこんな話がまことしやかに語られていた。

タネを明かしてしまえば、これは事実ではない。李輝昭がいかに優れた学者だったとは言え、彼の研究テーマは核兵器開発に直接生かせる類のものではなかった。それに同僚の科学者の証言によれば、李輝昭は朴正熙の独裁体制を忌み嫌っていて、学術交流のための母国訪問すら渋りに渋ったとされている。

そもそも、「李輝昭謀殺説」は韓国のあるベストセラー小説に描かれたことがきっかけで流布するようになったのだが、少なくない人が、これを単なるフィクションとして片付けることをよしとしなかったのだ。そのことは、国営放送のKBSが2010年に、「李輝昭の真実」として検証番組を放映していることからもわかる。

こうした現象は、現実に存在した韓国の核兵器開発プログラムの全容が、いまだに明かされていないことから生じたものと言えるだろう。

「作戦」の主人公

さらにもうひとつ、朴正熙の核兵器開発を巡り、米韓が水面下で激しい諜報戦をたたかわせた事実が、様々な謀略説のバックボーンになっているとも考えられる。

朴正熙暗殺や李輝昭の事故死にアメリカが関与していなかったにしても、CIAが核武装に向けた韓国の野心をくじくために「作戦」(オペレーション)を展開していたことは事実だ。

そして、そのオペレーションにおいて主人公のひとりとなったのが、30歳そこそこの若きスパイ、リチャード・ローレスその人だったのである。(敬称略/つづく)

(取材・文/ジャーナリスト 李策)

【連載】韓国「核兵器開発」秘史(中) 若きCIAスパイの暗躍

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