朝鮮半島の分断、そして統一の可能性については、よくドイツの事例に例えられる。「ドイツ統一情報センター」のパク・サンボン氏が、ドイツ統一のきっかけとなった「月曜デモ」について寄稿してくれた。

旧東ドイツのライプツィヒにある聖ニコライ教会は単なる宗教施設ではない。そこは東ドイツの自由と民主化の代名詞であり、民主化闘争を闘う人々の砦であり、独裁政権を崩壊させ、統一への道を開いた非暴力運動「月曜デモ」の発端の地でもあった。

月曜デモは、聖ニコライ教会で1981年から始まった「平和への祈り」に端を発する。「全ての人に門戸を開く」との言葉のもとに、宗教を問わず様々な人が集うほんの小さな祈りの集まりだった。

ところがこの集まりは、徐々に東ドイツ独裁政権に対抗する運動の拠点へとなった。そして1988年、「平和への祈り」を終えて教会を出た人々は、街に繰り出してデモを行った。東ドイツ政府は「平和への祈り」を禁止し、秘密警察シュタージは教会やその関係者を監視下に置いた。

しかし、政権がいくら押さえつけようとしても「平和への祈り」の参加者は増える一方だった。さらに運動はライプツィヒの他の教会にもどんどん飛び火していった。

そしてついに1989年9月4日、「平和への祈り」終了後に、大規模なデモが行われた。それは東ドイツ独裁政権に対抗することを掲げた初めてのデモだった。

1000人あまりのデモ参加者は「シュタージ消えろ!」「旅行の自由を!」「さもなくば大量出国するぞ!」とシュプレヒコールを叫びつつ街を練り歩いた。警察はデモを武力で鎮圧し、70人が逮捕された。

圧倒的な警察の兵力を見せつけられ、市民たちは恐れおののくかと思いきや、逆に怒りに火を付けた。10月9日には、月曜デモの参加者は7万人にも達した。当時のライプツィヒの人口が53万だったことを考えると、非常に大規模なデモだった。警察は再び武力での鎮圧を図ったが、「非暴力」を叫び続けるデモ隊に武力での対抗は無駄だった。

やがて月曜デモは東ドイツの全域に広がり、10月16日には全国各地で約12万人が参加するに至った。警察は、その熱気と勢いに押され、計画していた大規模な鎮圧作戦を実行する意欲を失ってしまった。

それから2日後の18日、独裁者ホーネッカーは「健康上の理由」で政権を投げ出した。民主化を望む人々の熱望はもはや押しとどめることができなくなかった。11月9日のベルリンの壁崩壊へと繋がっていった。

秘密警察シュタージの綿密な監視体制も、最新鋭の武器で武装した警察も、それらが生み出した理不尽さも、人々の非暴力運動の前にかくも虚しく崩れ去ったのだ。(ドイツ統一情報研究所パク・サンボン代表)

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