圧倒的な警察の兵力を見せつけられ、市民たちは恐れおののくかと思いきや、逆に怒りに火を付けた。10月9日には、月曜デモの参加者は7万人にも達した。当時のライプツィヒの人口が53万だったことを考えると、非常に大規模なデモだった。警察は再び武力での鎮圧を図ったが、「非暴力」を叫び続けるデモ隊に武力での対抗は無駄だった。
やがて月曜デモは東ドイツの全域に広がり、10月16日には全国各地で約12万人が参加するに至った。警察は、その熱気と勢いに押され、計画していた大規模な鎮圧作戦を実行する意欲を失ってしまった。
それから2日後の18日、独裁者ホーネッカーは「健康上の理由」で政権を投げ出した。民主化を望む人々の熱望はもはや押しとどめることができなくなかった。11月9日のベルリンの壁崩壊へと繋がっていった。
秘密警察シュタージの綿密な監視体制も、最新鋭の武器で武装した警察も、それらが生み出した理不尽さも、人々の非暴力運動の前にかくも虚しく崩れ去ったのだ。(ドイツ統一情報研究所パク・サンボン代表)