「観光開発」で揃い踏み

日韓両政府は1971年8月の「第5回日韓定期閣僚会議」での合意をきっかけに、協力して済州島開発に着手する。同会議に通産相として出席したのが、後の首相・田中角栄である。

そしてその進展を受け、「ナッツ姫」の祖父・趙重勲(チョ・ジュンフン)率いる大韓航空は1976年、PR紙で次のような宣伝を打つ。

「カジノパラダイス、済州島に堂々完成! 大阪・福岡よりKAL(大韓航空)でひとっ飛び。済州島にKALホテル全三階フロア―に最高級カジノとして6月ニューオープン。楽園済州島へのお越しを……」

Jo_Osano
小佐野賢治氏(左)と趙重勲氏

当時、KALホテルの建設・運営に当たっていた韓日観光開発は、KALと旧三和銀行系の日本開発の合弁会社だった。三和は、“小佐野銀行”とまで言われるほど小佐野賢治と近かった。

済州島開発を巡ってはほかにも、東声会会長・町井久之(鄭建永)の関与が取り沙汰されていた。

国交正常化にともなうジャパンマネーの韓国流入を受け、ソウル地下鉄開発などの大型事業を岸信介元首相らが主導する一方、小佐野―趙重勲ラインは運輸・観光分野でのビジネスで潤って行く。

当時の韓国経済において、外貨獲得に有利な観光事業は基幹産業のひとつに位置付けられていた。大韓航空を擁する韓進グループは、財閥ランキングで三星(サムスン)、楽喜(後のLG)に続く3位にあったが、外貨獲得力では他を圧倒していたとされる。

たとえば、韓進が5年間のベトナム特需で稼ぎだした外貨は1億5000万ドルに上った。この頃、韓国国民の1人当たり年間所得が200ドル前後であったことを考えると、韓進の存在がいかに大きかったかがわかる。

「政治決着」の密命

そして、外貨に対するこうした「強さ」こそが、趙重勲が日韓政治になくてはならないキーマンとなった所以だった。

趙重勲は日韓国交正常化前の1964年7月、東京に飛ぶ。財政がひっ迫し、ジャパンマネーを待ちきれない朴正熙(パク・チョンヒ)政権のたっての依頼を受け、2000万ドルの借款を前倒しで引き出すためだった。小佐野ラインを通じ、首尾よく田中角栄蔵相の説得に成功した趙重勲は、その後も同様の仕事を見事にこなした。

朴正熙からの絶大な信頼を得た趙重勲は1973年8月15日、青瓦台(大統領官邸)に緊急の呼び出しを受ける。拉致された金大中がソウルの自宅前で発見された2日後のことだ。

そのときの経緯について、在米韓国人ジャーナリストの文明子(ムン・ミョンジャ)は『週刊ポスト』(1977年3月18日号)に、こう書いている。

前年の、自民党総裁選に際して朴および彼の周辺は「福田優勢」と分析していたのだが、案に相違して田中が勝った結果、朴は自民党主流派に有力なパイプをもたぬことになった。そこで、田中の“刎頚の友”・小佐野賢治と親しい趙重勲に「政治決着」の可能性打診と仲介を命じたわけである。

そして、趙重勲と小佐野、田中らは3回にわたり密会。最後の「箱根会談」で、実質的な政治決着が決まったという。

ここで言う政治決着が、「カネによる解決」を意味しているのは言うまでもない。そこで動いたカネの額については、米国や日本、韓国の報道などで「3億円説」と「4億円説」、「合計7億円説」と様々出ている。

ちなみに、そういった一連の報道に対し、田中や小佐野、趙重勲らが反論を行った形跡は一切ない。

いずれにせよ、当時の韓国にとって日本円で億単位の裏金をポンと積むことは簡単ではなかったはずだ。その点でも、朴正熙が趙重勲を重宝したであろうことは想像に難くない。

果たして彼らは、いったいどれほどのカネで「金大中事件」にフタをしたのだろうか。(敬称略=おわり)

(取材・文/ジャーナリスト 李策)

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