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1950年に勃発した朝鮮戦争で戦った韓国軍兵士の中には、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)や中国人民義勇軍の捕虜となったまま、帰還を果たせないでいる人々がいる。韓国では「国軍捕虜」と呼ばれるが、休戦協定が結ばれた1953年に国連軍司令部が国連に提出した資料では、その数は行方不明者まで含めて8万2000人となっている。

その半分程度が戦争を生き抜いたものと推定されているが、当初送還された8300人を除いて、韓国への帰還は行われていない。

2010年当時、500人が生存していたと言われているが、高齢化が進んだ上に、北朝鮮社会で最も成分(身分)が悪いとされ、劣悪な環境に置かれてきたことから、生存者はもはや残り少ないだろう。今まで脱北に成功したのは80人に過ぎない。

(参考記事:【徹底解説】北朝鮮の身分制度「出身成分」「社会成分」「階層」

韓国の慶尚北道(キョンサンブクト)出身で1950年、18歳のときに韓国軍に徴兵され、戦場に送られたチェさんは翌年、朝鮮人民軍の捕虜となり、平安南道(ピョンアンナムド)江東(カンドン)郡にあった捕虜収容所に入れられた。厳しい監視下に置かれ、脱出を試みた者には銃殺を含めた過酷な罰が与えられた。

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その後、咸鏡北道(ハムギョンブクト)慶興(キョンフン)郡の阿吾地(アオジ)炭鉱に送られ、過酷な強制労働に生涯苦しめられ続けた。北朝鮮当局は、国軍捕虜の逃亡を思いとどまらせるために、成分の悪い現地出身の女性と結婚させた。

炭鉱では「あいつらは捕虜の家族だ、しっかり仕事をさせて監視せよ」と言われ続けた。配給も規定の半分に減らされ、作業服やヘルメットの供給でも差別的な扱いを受けた。そればかりか朝鮮労働党の阿吾地炭鉱委員会はこう言い放ったという。

「捕虜の家族は死なない程度に食べさせて、背中が曲がるまで代々働いたとしても、わが共和国(北朝鮮)に対して犯した罪を償えないほどの階級の敵だ」

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2000年に韓国の金大中大統領が訪朝し、金正恩総書記と歴史上初となる南北首脳会談を行ったというニュースを見たチェさんは、涙を流し、送還問題が議論されるかも知れないという期待に胸を膨らませた。しかし、関連する議題が出なかったことを知ったチェさんは、このように嘆いて泣きじゃくったという。

「国のために戦った者を、国はなぜこれほど簡単に忘れてしまえるのか」

(参考記事:元韓国軍捕虜、南北首脳会談で問題に言及しない金大中大統領に不満

差別、空腹、ストレスの中で故郷に帰る日を夢見ていたチェさんだが、それを果たせないまま、2005年にこんな遺言を残して亡くなった。

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「私はもうダメだ。戦争のときの私の所属、階級、認識番号を覚えておいて、韓国が国軍捕虜を探す事業を始めたら、お前たちだけでも(韓国に行って)、われわれがどのようにして死んでいったかを伝えてほしい」

だが、息子も炭鉱事故で2016年に亡くなった。同じ年には、党の政策を非難して国を冒涜したとして、国軍捕虜の子孫の20代青年17人を炭鉱の前庭で公開裁判にかけて、政治犯収容所送りにしたという。

チェさんの妻、息子の妻も亡くなり、一家で遺されたのは孫だけ。家を失ってコチェビ(ストリート・チルドレン、ホームレス)となった彼は、あちこちをさまよいながら延命しているという。

その彼が話した一家の物語が、デイリーNKに伝わった。彼は、祖父の所属、階級、認識番号を脳裏に焼き付け、韓国へ行って、国軍捕虜とその家族がいかに悲惨な暮らしを強いられているかを証言する日を、指折り数えて待っているという。