昨年の秋夕の離散家族再会行事で、これまで戦死者として処理されていた朝鮮戦争当時の韓国軍捕虜4人が、北朝鮮側の再会申請者に含まれていた。これまで国防部が脱北者や帰還捕虜の陳述などを土台に作成した生存者(500名)リストには、含まれていなかった。

北朝鮮が韓国が把握していない捕虜生存者の存在を公開した背景には、韓国政府から支援を引き出すための交渉戦略の一環と解釈されていた。

しかし、北朝鮮はいまだに韓国軍捕虜の存在自体を認めていない。「韓国軍から転向してきた」とだけ明らかにしている。しかし、北朝鮮を脱出して帰還した元韓国軍捕虜らは「個人の自由意思とは関係なく、北朝鮮当局の強制によって残ることになった」と話す。

さらに彼らは、一生を咸鏡道などの奥地の炭鉱で強制労働に動員された。また、捕虜の子供たちは、「敵対階級」のレッテルを貼られて進学、就職、結婚などで差別を受けた。

現在までに、北朝鮮を脱出して帰還した韓国軍捕虜は79人で、そのうちの16人は既に死亡、この中でも遺骨として返還されたケースが5件に登る。10代初めに戦争に参加したとしても、生存者の多くは70代後半の高齢という点で、果たして何人が生存しているか定かではない。それだけに、帰還者の証言は、韓国現代史の貴重な記録である。

韓国軍捕虜のユ・ヨンボク(82歳、2000年に韓国入国)氏が最近出版した回顧録「運命の二日」が問いかけるメッセージは大きい。

ユ氏は17日のデイリーNKとのインタビューで、「今日の大韓民国を守るために死んでいった仲間たちの無念を証言して代弁するために、(韓国に)やってきた」と話した。

彼は本のプロローグで「私は韓国に来て幸せでやりがいのある日々を過ごしている。過ごすほどに、北朝鮮で飢えに苦しみ苦労した友人と子供の事が思い出される。韓国軍捕虜がこのように繁栄・発展した祖国の姿をただ一目でも見ることができるのなら、自らの命を捧げ国を守った事に大きな誇りを感じて喜ぶだろう」と述べている。

「中国の人民解放軍の砲撃によって警戒所が崩れ、私は土砂に埋もれた。胸まで埋まった私は身動きすら取れなかった。そんな私を人民解放軍が捕虜にした。私の人生の分かれ道だった」

ユ氏は、朝鮮戦争の初期に強制的に義勇軍として駆り出され、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)として戦争の渦に巻き込まれた。その後、韓国軍に捕まり巨済島の捕虜収容所に収監された。 2年間の服役後に釈放されたが、人民軍だったという過去を武功で補うべく、韓韓国軍に入隊した。しかし、中国の人民解放軍の捕虜になったことで悲劇的な運命を迎えることになる。

その後、北朝鮮の平安南道の平安軍捕虜収容所に連行され、炭鉱での労働生活が始まる。「我々は囚人ではない捕虜なので、いつかは送り返してくれるだろう。まさか10年もいるはずはないだろう。指揮官も私たちを覚えているだろう」と、仲間同士で励まし合っていた。

しかし、ユ氏は北朝鮮当局が発行した公民証を受けとった瞬間、帰還への希望を捨てた。北朝鮮は「韓国軍捕虜を北朝鮮人民として受け入れる。頑張って働けば党員になれるだろう」と、韓国軍捕虜たちを懐柔した。

捕虜生活の中で知った母と弟らの消息も、北朝鮮での定住を受け入れるしかない理由になった。韓国にいると思っていた母と弟が、黄海道(ファンヘド)に避難していたからだ。

彼は母と弟まで扶養しなければならず、韓国軍捕虜というハンディを克服するために、必死に働いた。北朝鮮で弟の出世の道を「韓国軍捕虜」である自分が邪魔してはならないと思ったからだ。

ユ氏だけでなく、他の韓国軍捕虜も一生涯を炭鉱で苛酷な労働に苦しめられた。

「(軍捕虜)炭鉱で働くこと自体が苦痛だった。じっと立っていても汗が流れ息も出来ないほど。労働で死んでいった同僚は1人2人じゃない」。

真面目に働いたおかげで勲章を6回も受賞した。しかし、韓国軍捕虜というレッテルは消えなかった。家族も労働党員になることは出来ず、弟たちは人民軍に入る事も出来なかった。不満の矛先は全てユン氏に帰ってきた。

弟はユ氏に「いっそのこと、私たちは北朝鮮で会わなければ良かったのに」と、胸の内を明かすこともあった。弟の冷たい視線と子供たちの独立、崩壊した配給 などで崖っぷちに追い込まれた。そして寝たきりとなった彼を見守る人もいなくなった。

しかし、苦痛の時を過ごす彼にも希望が訪れた。2000年の南北首脳会談で、北朝鮮を訪問した金大中大統領をテレビで見た時だった。

彼は「金大統領が『もういい加減に韓国軍捕虜を返還せよ』と言うと思っていたが、彼はそのような話は全くしなかった。韓国のために戦って囚われの身となった人々に、なぜ何も言わないのか」と憤慨した。

「あの時私は70歳だったが、弟らも私と疎遠になっており、北朝鮮は韓国軍捕虜を差別し生涯を炭鉱で腐らせたくせに、配給も与えないので脱北を決意した。生きるだけ生きたので、死ぬ前に南にいる父親と会いたいと思った」と話した。

2000年に韓国に帰還した後、夢にまで描いていた父親に会うことができた。

「車椅子の前に跪いて、父親の手を握った。父親と対面すると胸が詰まった。父のやつれた手が私の胸を痛めた。父は私を見守るだけで、一言も話さなかった。20歳の青年だった私が、白髪になって現れたのだから。無理もない」

本の末尾には、彼の最後の願いが書かれていた。

「(軍捕虜が)故国の地をどれほど恋しがっていたか、自分が死んだ後にでも遺品を故郷に埋めて欲しいとの遺言を残す程だった。韓国政府は北朝鮮と交渉し、韓国軍捕虜の遺体を引き取らなければならない。それが国のために命を捧げた韓国軍将兵たちを最後まで責任を持つ姿勢だと思う」

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