「(軍捕虜)炭鉱で働くこと自体が苦痛だった。じっと立っていても汗が流れ息も出来ないほど。労働で死んでいった同僚は1人2人じゃない」。
真面目に働いたおかげで勲章を6回も受賞した。しかし、韓国軍捕虜というレッテルは消えなかった。家族も労働党員になることは出来ず、弟たちは人民軍に入る事も出来なかった。不満の矛先は全てユン氏に帰ってきた。
弟はユ氏に「いっそのこと、私たちは北朝鮮で会わなければ良かったのに」と、胸の内を明かすこともあった。弟の冷たい視線と子供たちの独立、崩壊した配給 などで崖っぷちに追い込まれた。そして寝たきりとなった彼を見守る人もいなくなった。
しかし、苦痛の時を過ごす彼にも希望が訪れた。2000年の南北首脳会談で、北朝鮮を訪問した金大中大統領をテレビで見た時だった。
彼は「金大統領が『もういい加減に韓国軍捕虜を返還せよ』と言うと思っていたが、彼はそのような話は全くしなかった。韓国のために戦って囚われの身となった人々に、なぜ何も言わないのか」と憤慨した。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面「あの時私は70歳だったが、弟らも私と疎遠になっており、北朝鮮は韓国軍捕虜を差別し生涯を炭鉱で腐らせたくせに、配給も与えないので脱北を決意した。生きるだけ生きたので、死ぬ前に南にいる父親と会いたいと思った」と話した。
2000年に韓国に帰還した後、夢にまで描いていた父親に会うことができた。