「今は独裁者になったが、彼(金正日)も幼い時には恥ずかしがりやで頬を赤らめた少年だった。彼の心に、まだこうした人間らしさが残っていることを、そして自分が作った北朝鮮の姿に胸をいためることを、また最後に大きな決断を下してくれることを願う」(私は21世紀の遊牧民より)

北朝鮮の金亨稷(キム・ヒョンジク)師範大学教授出身で、金日成一家の家庭教師を勤めたキム・ヒョンシク(75)エール大招聘教授が、韓国に脱北してから15年後に出した自叙伝「私は21世紀の理念の遊牧民」(キムヨン社)。

この著書には、崩れて行く北朝鮮社会に対する老知識人のうずくような胸の痛みがにじみ出ている。

教授は「私の願いは北の地に住んでいるすべての人が、一日だけでも人間らしく暮らせること」「人であれば誰でも当たり前に享受すべきものを彼らに知らせるためにも、金正日は北朝鮮を開放しなければならない」と訴える。

38年間、大学の講壇で北朝鮮の最高エリートの学生たちにロシア語を教えたキム教授は、1971年から20年以上、金聖愛(キム・ソンエ、金日成の2人目の妻)の甥たちの家庭教師をつとめたこともある。

しかし、1991年に国立ロシア師範大学の交換教授として派遣されたことをきっかけに人生は一転する。ロシアで朝鮮戦争時に別れた姉に劇的に再会したが、これが北朝鮮政府のに知られてしまったのだ。厳しい立場に置かれたキム教授は、1992年に韓国に亡命した。

北朝鮮に妻と息子、嫁、2人の娘と5人の孫に残したままの旅立ちだった。

15年前、長男のお土産にしようとモスクワで買った電子計算機は今でも大切に取ってあるというキム教授は、自叙伝の前書きで「家族の冥福を祈って、この本を捧げる」と書いている。

キム教授は、金正日に初めて会った瞬間をありありと記憶している。

高級中学校(高校)3年生だった金正日のロシア語の実力がひどい有様であることを知って焦った金日成は、キム教授に、金正日の通っていた学校で検閲(試験)を出すことを指示した。

“北の現実を無視した‘北朝鮮専門家’に言葉を失う”

「権力を握った金正日は、暴圧で気まぐれな人物だと言われているが、私が最初に見たときはそうでなかった。金正日のロシア語のレベルをテストした時のことだった。文法は少しはできたのだが、会話はめちゃくちゃで、額に汗をだらだらと流していた姿は鮮明に記憶に残っている」

金正日がレベルの低いロシア語しか話せないことを知った金日成氏は激怒して次のような指示を出したという。

「南山学校でロシア語の会話ができない教員は全て解雇しろ」

これを機に、北朝鮮は文法中心のロシア語の授業を、会話中心に変えた。

だが、叔父と異母弟を退けて権力を手に入れた金正日は「党の唯一思想体系確立の10大原則」という綱領を作り、独裁者としての片鱗を見せ始めた。

キム教授は、「金正日の綱領で自分自身を神格化し『首領はただ、その家系でのみ継承されるので、誰も欲張ってはならない』と厳重に警告した。金正日の10大原則が発表されるやいなや、中央党では全国民に、1ヶ月以内にすべて暗記しろとの指示を出した」と語る。

また「ソウルに来て、多くの北朝鮮研究者に会ったが、彼らは北朝鮮の政策を語る度に、憲法と党の規約などから法的根拠を探そうとする。彼らの学者としての態度に、開いた口がふさがらず、言葉を失った」と言う。

「首領独裁下の北朝鮮で、国家の基本法は憲法ではなく、金正日の10大原則だ。北朝鮮の現実を知らないまま『学問的にだけ』北朝鮮を研究することをどう受け入れるべきか、息苦しさは学者に対してだけでなく、韓国社会のあちこちで感じる」(キム教授)

それでもキム教授は「金日成は少なくとも人民のためにと、人間を愛する人だった。人間的に今でも好きで尊敬している」と回想している。

一方で「金日成は息子の金正日に権力を丸ごと譲り、醜く年をとった。一時期は人民が飢えない地上の楽園を作ると広言したが、息子に権力を譲った後は正気ではなかったようだ」と語る。

最後にキム教授は「金日成は権力を息子に譲ってから判断力も失い、息子(金正日)にへつらって晩年を過ごした。彼と共に北朝鮮もめちゃくちゃに壊れていった」と、崩れ行く祖国への切ない胸中を吐露した。