日本と同様、韓国にも同窓会がある。しかし、日本のものとは少し趣が異なる。

まず、多ければ年に数回と、かなり頻繁に行われる点がある。また、レストランやホテルでの食事に限らず、登山、海外旅行など様々なイベントを開催するのも日本の一般的な同窓会とはやや違っている。そうして同級生同士の絆は、卒業から何十年もの時間を経つつ深まり続けるのだ。

では、北朝鮮ではどうだろうか。

収容所送りも

脱北者の話によると、本当に親しい同級生が集まって開くささやかな同窓会はあるが、クラスや学年全体が集まるような大規模なものは開催が難しいという。いったい、何故なのだろうか。 北朝鮮の人々は、市場での商売に忙しく、時間もなければ、経済的な余裕もない。さらには行商に出ている人もいる。同級生の中に一人でも金持ちがいれば、その人の負担で同窓会を開くこともあるが、一般的には集まること自体が難しいのである。

そして大規模な同窓会を開催しないのは、国家安全保衛部(秘密警察)のスパイが混じっている可能性があるからだ。

また、同窓会がレストランで開かれることはほとんどなく、一般的には個人宅で行う。同じ学校にいた人々が公の場で集まっているだけで「宗派行為」(分派行為=反政府活動)と見なされかねないからだ。

保衛部は「同窓会や友人同士の集まりでは政治的な発言に注意せよ」と脅迫に近い警告を繰り返しており、同窓会組織に対する調査も行っている。開催日時、参加者の名前、人数、話の内容まで調査する。万が一、宗派行為と見なされでもしたら、収容所送りになりかねない。

ペレストロイカの衝撃

同窓会が、幹部200人の銃殺につながったことすらあった。1990年代に起きた「フルンゼ軍事大学事件」と呼ばれるクーデタ未遂事件である。 北朝鮮は1986年から1990年の間に、朝鮮人民軍の20代から40代の軍人250人を、ソ連(当時)のフルンゼ軍事大学に留学させた。

同大学には東欧諸国からやって来た留学生も多く、北朝鮮留学生は彼らを相手に社会主義朝鮮の優越性、偉大さを語った。ところが返ってきたのは「個人崇拝の国」「スターリン的な独裁国家」という批判ばかりだった。さらには抗日パルチザンとしての金日成氏の業績も嘘だということを教えられた。

北朝鮮で受けてきた洗脳にヒビが入ったところに、衝撃的な出来事が追い打ちをかけた。社会主義の総本山、ソ連においてペレストロイカ(体制改革)が始まったのだ。

暗殺計画

北朝鮮の軍人たちは国も、社会も、人も社会主義を捨て、資本主義に走るのを現場で目撃した。そして、徐々に「世襲」「個人崇拝」といった北朝鮮の国のあり方に疑問を持つようになった。

そんな頃、北朝鮮ではゴルバチョフ批判が始まる。レーニンの業績を台無しにしているというのだ。

留学生たちは荷物も持たず、学費に当てるために商売をして稼いだ金もすべてソ連に置いたまま帰国を余儀なくされ、「ソ連で何をしていたのか」と厳しい追求を受けた。そして、環境の悪い地方の部隊や軍事大学に追いやられ、彼らの間で不満が高まった。

そして、フルンゼ軍事大学出身者を中心に、一人、また一人と同窓生のネットワークができていった。やがて、崔龍海氏の姉の夫であるホン・ゲソン氏を中心に複数の師団長が集まった。軍の約4割の兵力を隷下に置いていた彼らは、1992年4月25日に行われる軍事パレードで、金日成氏と金正日氏を戦車で轢き殺す計画を練った。

カナヅチで処刑

ところが、密告によりこの計画が露呈。それを知った金日成・正日の親子は「恩知らずどもめ、調べあげて無慈悲に掃討せよ」と指示を下した。 1993年2月、人民武力省で行われていた会議の途中、武装した軍人が会場になだれ込み、その場で70人の将校が逮捕・連行された。

粛清の嵐はその後5年にわたって続き、30人の将官、100人の佐官、70人の尉官が逮捕され銃殺刑に処された。家族も職を解かれ、平壌から追放された。銃殺や追放を免れた留学生も、軍を辞めざるを得なくなり、再就職後も閑職に追いやられた。

しかし、粛清の嵐はそれで収まったわけではない。金正日氏の指示に従って、保衛司令部は、フルンゼ軍事大学出身者とつながりのある者をあぶり出すために全国的な検閲(調査)に乗り出した。

両江道(リャンガンド)恵山(ヘサン)市では、1998年の1年間に、労働党、行政機関、司法機関の幹部200人以上が逮捕、銃殺された。両江道保安局のリ・ソンフン捜査処長は、カナヅチで殴られ処刑されたとも言われる。粛清の嵐はその後もしばらくは止まず、全国的にどれほどの幹部が粛清されたのか不明なままだ。

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