20日は韓国にやってきて2回目の「障碍者の日」だった。

民主主義社会では障碍者に対する処遇の改善と、各種の社会優待政策が、先進国であることを示す目安とみなされるようだ。韓国でも大学進学や就職の面接の際、社会奉仕活動を評価項目に入れるという話を聞き驚いた。北朝鮮では、障碍者優待政策や奉仕という概念自体が聞きなれないものだからだ。

こうした制度が導入されるのは、疎外されている階層への福祉政策課や市民の意識レベルが上がったからだ。北朝鮮は人民の楽園だと喧伝しているが、一般の住民も餓死する中で、障碍者はさらに惨めな暮らしを強いられている。

北朝鮮は、軍勤務中に負傷した栄誉軍人(傷痍軍人)に対してはそれなりの待遇を行うが、その他の障碍者は「生まれてはならない」恥ずかしい存在として考えられている。

一生を疎外された階層として暮らし、自分の能力を発揮する機会を得るのは大変だ。韓国でも健常者による障碍者差別が問題になることがあるが、各種の優待施設や恩恵、就業の機会などを見ると、北朝鮮に比べればレベルの高い制度が整っている。

北朝鮮の代表的な障碍者政策は、平壌市内から障碍者を追い出すことだった。平壌市の中区域、平川(ピョンチョン)区域、大同江区域などの中心区域には障碍者がいない。

理由は簡単だ。障碍者が「革命の首都」平壌にいることが、外国人に不快な印象を与えるという理由からだ。こうした政策は金正日総書記が直接指示したものだ。北朝鮮の障碍者への見方がそのまま現れている。

平壌郊外に行けば障碍者がいる。彼らは家族の保護を受け、外出を避けてひっそりと暮らしている。

党の指示「障碍者は追放」

筆者が平壌市平川区域で暮らしていた時のことだ。筆者の妹は幼い時小児麻痺にかかって、片方の足を引きずっていた。片足が細くて短かったため、歩く姿は不格好だった。

1982年7月のある日、農業委員会に勤めていた父が暗い顔をして家に入って来た。父は夕飯を食べずに上の部屋に上がり、母は「職場で何かがおきた」と思って父を追って上がっていった。

しばらくして下の部屋に来た父と母は、11歳になった妹の頭をなでながら「あなたにはしばらく叔父さんの家に行ってもらうことになった」と伝えた。

まだ幼く、遊びに行くものとばかり思い込み喜んでいた妹は、両親の話に「いや!私はお母さんと一緒にいたいの。私行かない」と言って泣き崩れた。他人から後ろ指を刺されながら育ったが、うちの両親は他の兄弟よりも、妹をかわいがった。兄弟もそうした両親の心情をよくわかっていた。

幼い時に小児麻痺で生死の境をさまよったがなんとか回復した子どもが、今度は地方に生かされることになった。両親の心中は察するに余りある。親戚とて障碍を持つ妹を歓迎するはずがなかった。障碍を抱えたまま両親と離れ離れになり地方で暮らすことはいかに辛かっただろうか。

なぜ妹を地方に送ることになったのだろうか。それはこのような事情があった。その日の朝、父は職場の党書記から呼び出され、「◯◯トンム、トンムの娘は障碍者なので、地方に行かせるか、トンムの家族全員が地方に行かなければならない。党の方針だ」と告げられた。

父は「娘を一切外に出さずに育てる」と泣いて懇願したが、「革命の首都平壌には障碍者がいてはならないというのが党の方針だから、私も仕方がない」とけんもほろろだったという。

韓国では地方の人も本人が望めばソウルに暮らすことができるが、平壌はそうはいかない。住めるのは成分(身分)のよい人だけだ。親や子どもが問題を起こせば、地方に追放される。障碍者を地方に行かせるというのは厳然とした党の政策だ。逆らえば「党政策怠工分子」として家族全体が追放される。

平壌は供給(配給)事情が少しはマシなので、北朝鮮の人にとっては希望の地だ。地方の人が「平壌に行く」と言えば、大出世したと考えられる。父も10年間の兵役を終え、農業大学を出た後に苦労して国の機関に入った。娘のために仕事をやめて地方に行くのも困難な状況だった。

結局父は、平壌から数百里離れた地方に住む叔父に、「他の措置があるまでしばらく子どもを預かってほしい」と頼んだ。叔父も平壌に住む弟を誇らしく思っていたようで、 快諾してくれた。

「お前なんで追放されたの?」といじめられる

松葉杖をついて旅立つ妹を見て母が涙をこぼし、地面に座り込んだ。その姿が今でも鮮明に残っている。筆者も妹の手を握って「一所懸命勉強しなさい」と伝えた。かならず連れ戻しに行くという言葉と共に。

妹は足が不便だったが、顔はきれいで勉強もよくできた。そのため、家ではかわいがられたが、地方では待遇が違った。足がおぼつかなく、他の生徒たちうまく交われず、冷やかされたという。

平壌から追放された人に好意的でないという風潮も影響したようだ。「お前はなんで追放されたの?父親が左遷させらたのか」とからかわれた。頭にきた妹が石をいじめっ子にぶつけ、叔母が安全部に呼び出され一騒動となった。

妹は周りに冷やかされるのが嫌で、家の外に出なかった。学校にも通わなくなったが、学校は厄介払いができたという姿勢だったそうだ。3年経っても地方の生活に馴染めなかった妹は、休みのたびに平壌に帰ってきて、叔父の家に帰りたくないと駄々をこねた。

父は、平壌郊外の楽浪(ランラン)区域に住む母方の祖母と相談して、そこの党幹部にかなりの額のワイロを掴ませて、祖母の家に住まわせることにした。妹は外出せず、家で針仕事をして祖母の面倒を見ながら生計を立てた。中学校を卒業できなかった妹は、障碍者学校への進学も叶わなかった。

平城(ピョンソン)の商業幹部学校の「裁断師班」があり、障碍者でも入学可能だが、妹は家から出られなかったため、針仕事に長けた裁断師を訪ねて、技術を学んだ。

妹は、学校教育をきちんと受けられなかったことを公開していた。いかなる差別があろうとも、我慢して打ち勝つことで人生が開けるだろう。しかし、あんな差別に打ち勝てと、学校をやめた妹を責める気には慣れなかった。

韓国で障碍を持った人に会うたびに、今も祖母と一緒に暮らしているであろう妹のことが思い出されてならない。

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