※この記事には事故現場の凄惨な光景の描写が含まれます。

川原に広がる地獄絵図

北朝鮮の大型工事の特徴のひとつに、故金日成主席および故金正日総書記の誕生日や朝鮮労働党、朝鮮人民軍などの創建記念日までに工事を終え、その当日に完成式典を行い、体制のプロパガンダに利用するという点がある。

当局から求められた期日に間に合わせるため、「千里馬速度」「馬息嶺速度」などの号令のもと、「速度戦」が繰り広げられる。そして、竣工を一般的な工事より大幅に繰り上げるため、安全を無視した無茶な工期短縮が行われ、その結果事故が多発している。

一昨年の10月には、国の中枢である国防委員会の庁舎新築の工事現場で崩壊事故が発生し、80人が死亡したと伝えられている。この手の労災事故は枚挙にいとまがないが、過去にはそれを遥かに超える大事故が起きていた。

現場となったのは、平壌と開城を結ぶ北朝鮮の大動脈「平壌開城高速道路」。1992年4月に竣工した総延長160キロに及ぶ北朝鮮の大動脈だ。

その当時、現場にいた人のうち数人がその後脱北して、現在は韓国で暮らしている。韓国で発表されている彼らの証言や手記を元に、当時の状況を再現してみた。 時は金日成氏が存命中の1989年に遡る。1987年12月に始まった「平壌開城高速道路」の工事は概ね順調に進んでいた。ところが、1989年4月15日(金日成氏の誕生日)までに急ぎ工事を終えよとの指示が、当局から下される。

突如として指示された工期短縮。それに間に合わせるため、数多くの軍人や一般労働者が動員された。その効果もあり、路盤工事は必要なペースで進んだが、黄海北道(ファンへブクト)の金川(クムチョン)を流れる礼成江(レソンガン)に掛かるアーチ型の橋だけは工事が遅れていた。

完成を早めるため、橋の上では軍人たちと資材を積んだトラック、工事用の機械が慌ただしく行き交っていた。

ところが1989年4月14日、指示された工期完了の1日前のことだった。証言者によると、事故が起きたのは午前10時頃。橋が轟音とともに崩落した。橋脚だけを残して上部の床版(しょうばん)が川の中に落下したのだ。

アルコール飲み干し事故現場へ

500人以上の軍人がトラックや機械もろとも120メートルの高さから落とされ、川原にたたきつけられたのだ。大慌てで川原に降りていった人々が見たものは、地獄絵図だった。 現場に急行した医師や看護師、難を逃れた軍人や一般労働者たちは、現場に入る前に飯盒の蓋に注がれた医療用アルコールを渡され、飲み干すように指示された。それは現場が正視に耐えないほどの惨状を呈していることを意味していた。

そして彼らが川原で目にしたのは、想像を絶するほどのおぞましい光景だった。

頭部が半分なくなった人、機械の下敷きになりぺしゃんこになった人、鉄筋に串刺しになった人など死体があたり一面に散乱していた。

まだ息のある人も、固まっていないセメントの上に頭から突っ込んだため、目、口、鼻、体中の穴という穴がすべてセメントに塞がれ、この世のものとは思えないうめき声をあげていた。

看護師も恐怖に「感覚麻痺」

早速、救援活動が開始された。生きているか死んでいるかを確認して、まだ見込みのある人から救急車に載せて、金川郡病院と17号病院に搬送した。

ようやくセメントの海から引きずりだした負傷者を救急車に載せて病院に搬送する。未舗装の道を猛スピードで走る救急車。車が大きく揺れるたびに、体の切断された部位が痛むのか意味不明の言葉を喚き出す患者。

病院に着いた時は息があったものの、気道に入ったセメントが肺にまで入り込み呼吸困難に陥る患者が続出した。彼らは突然咳き込みだしたかと思うと、血を吐き、苦しむ胸をかきむしりながら死んでいった。

同時に遺体収集作業も行われた。当初はあまりの光景に震えるだけだった看護師たちも、アルコールを飲んだ効果があったのか、感覚が麻痺したのか、まるでゴミを拾うように肉片を手で掴んで担架にひょいひょいと載せていった。そうでもしないと、いつまで経っても作業が終わらないほどの状況だったのだ。

病院でもカメラマン失神

セメントに突っ込んで息絶えた人々の遺体収集作業は困難を極めた。セメントは早く固まるよう成分が調整されていたため、遺体がセメントともに固まってしまったからだ。収集は遺体をセメントから引き剥がすように引っ張るしかなかった。ようやく収拾した遺体を見ると、手や頭がもげてセメントの中に残っていた。

一方、大量の重傷者が搬送された17号病院も阿鼻叫喚の様相を呈していた。 次から次へと運び込まれる重傷者で、17号病院は、救急室も、病室も、廊下も、床は血だらけ。血をモップで掃き集めるとバケツがすぐにいっぱいになった。

手術は流れ作業のように行われた。負傷者に麻酔のガスを吸わせて、次から次へと処置を下していった。骨折してよじれてしまった腕は、人の手で元の方向に直した。胸から突き出た肋骨も、人の手で慎重に押し込んだ。

街宣車が「さっさと死ね」

大腿骨を骨折した患者が手術室に入ってきた。骨折部位を固定する釘を打つたびに、血しぶきや肉片が飛び散った。その光景を目撃した記録担当の万寿台芸術社のカメラマンはショックのあまり失神し、担架で運ばれていった。

平壌から救急隊員、人民武力部の担当者がやってきたのは午後2時を過ぎてからのことだった。普段でも人員が足りていない片田舎の病院に、大量の救護部隊が到着し、ようやく治療が本格化しだした。

救護部隊が来たのはありがたかったが、彼らと一緒にやってきた労働扇動隊は腹立たしい存在だった。病院の外に停められた街宣車のスピーカーから四六時中こんな軍歌を流し続けたのだ。

心臓のたぎる血を祖国に捧げる 誉れ高き旗が頭上に輝く いざ行かん人民軍 勇敢な戦士たちよ 人民と祖国を守ろう 命がけで守ろう

死ぬ直前の患者にこんな歌を聞かせて何になるというのだろう。「祖国はお前たちをもう見捨てた、さっさと死ね」と言っているのも同然だ。

次から次に増える犠牲者たち。丁寧に弔う余裕がなく、遺体は病院や事故現場周辺の山に集団で埋葬せざるを得なかった。こうして見送られた軍人は300人以上に及んだ。 生き残ったが障害の残った約200人の軍人たちは栄誉軍人(傷痍軍人)の称号と戦士栄誉勲章を得た。栄誉軍人には、配給などで様々な優遇措置がある。ところが、90年代後半の大飢饉「苦難の行軍」の頃に福祉制度も配給制度も崩壊したため、彼らは障害の残る体を引きずり、町に出て商売をせざるを得なくなった

さらには家を失いコチェビとなったものや、半グレ組織を結成して市場で乱暴をしている者すらいる。

高速道路が完成したのは、金日成氏の80歳の誕生日の1992年4月15日のことだった。500人以上の尊い命を犠牲にしたのに、結局1989年の金日成氏の誕生日には間に合わなかったのだ。無茶な指示さえなければ、失われなかったであろう多くの命。

しかし、その後も記念日までに無理やり完成を前倒しにする慣行は変わらず、工事現場で命を落とす人は後を絶たない。最高指導者や高位当局者の「鶴の一声」が、人民を死に追いやっているのだ。

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