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趙一族を知る在日大韓民国民団の関係者が言う。

「当時の運送屋は荷馬車が主体で、トラックは珍しかったそうです。彼はその車でソウルと仁川港の間を1日に何往復もして、半島から内地へ引き揚げる日本人の家財道具を運んだ。非常に手際がよく、当時から日本人の信頼は厚かったようです」

1950年から3年続いた朝鮮戦争の期間中、趙重勲はほかの多くの韓国人事業家と同様に苦難の時を過ごす。しかし、再起は早かった。韓進は1956年、駐韓米軍(第8軍)から物資輸送を請け負い、飛躍の土台を築いていく。

趙重勲は続いて、米戦略空軍のバス80台の払い下げを受け、ソウル―仁川間でバス路線を運行しようと計画した。当時の韓国で、国際港は仁川と釜山だけだった。ソウルに近い仁川は米軍関係者をはじめ人や物資の出入りが多く、バス事業がドル箱となるのは間違いなかった。

米軍ビジネスで結びつく

ところが、バスを買うのに必要な資金が集まらない。弱っていた趙重勲に、ある日本人が救いの手を差し伸べる。

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「韓進と国際興業の関係というものは、私の方が、いまから7、8年前にあちらへ米国の第8軍が駐とんしておりましたときに、バスを私の方で軍の命令で120台ほど持っていったことがあります。そのときにいろいろの面で取引がありました」

1976年2月16日、衆院予算委員会にロッキード事件で証人喚問された際の小佐野の発言である。「7、8年前」という部分に事実との食い違いがあるが、韓国側の資料によれば小佐野は1961年、バス80台分の資金を趙重勲に用立てたのである。

趙重勲は次に、ベトナム戦争特需に目を付けた。韓国からベトナムに運ばれる米軍や韓国軍部隊の物資輸送を請け負えば、それまでとはケタ違いの利益が転がり込む。

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ところが、またもや資金の問題が立ちはだかった。米軍と契約するには300万ドルの保証金を預託するとともに、数百万ドル分の装備類を自前で整えなければならない。当時の韓進にとって、このハードルは高かった。

そして、趙重勲はまたもや小佐野の支援を得て、この難題をクリアするのである。