たとえば、第2次世界大戦について「日独伊枢軸の侵略戦争だった」と教えていることは、「あれは大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトが、資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要したのであり、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した」との靖国史観を持つ日本人にとっては、大いに不満なはずだ。
また、もしかしたら、関東大震災時の朝鮮人虐殺について教えていることについても、「いつまでそんなことを」と思う人もいるかもしれない。
しかし、朝鮮学校の民族教育は、全体としては決して「反日」を許容しておらず、教員たちは一貫して「親善」を説いている。だいたい児童・生徒の父母の多くは、民族教育の内容について、手放しの支持を与えているわけではない。最も批判が強かった国家指導者への「個人崇拝教育」は、今ではかなり影をひそめているし、その次に父母たちの注文が多かったのは、日本社会で遭遇する様々な場面における適応力の強化だった。「反日」のひと言でくくれるような単細胞的な教育では、とても支持を得ることはできない。それでも時として「反日」呼ばわりされてしまうのは、たんにある種の日本人に対する配慮がないというだけのことだ。