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朝鮮学校では本当に反日教育を行っているのか?

この問いにひと言で答えるとすれば、「行われていない」ということになる。小学校から大学までの16年間、学校教育を朝鮮学校でのみ受けた者としての、率直な回答だ。

もっとも、ある種の日本人から見て、「反日的だ」と感じられる要素ならばある。

たとえば、第2次世界大戦について「日独伊枢軸の侵略戦争だった」と教えていることは、「あれは大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトが、資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要したのであり、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した」との靖国史観を持つ日本人にとっては、大いに不満なはずだ。

また、もしかしたら、関東大震災時の朝鮮人虐殺について教えていることについても、「いつまでそんなことを」と思う人もいるかもしれない。

しかし、朝鮮学校の民族教育は、全体としては決して「反日」を許容しておらず、教員たちは一貫して「親善」を説いている。だいたい児童・生徒の父母の多くは、民族教育の内容について、手放しの支持を与えているわけではない。最も批判が強かった国家指導者への「個人崇拝教育」は、今ではかなり影をひそめているし、その次に父母たちの注文が多かったのは、日本社会で遭遇する様々な場面における適応力の強化だった。「反日」のひと言でくくれるような単細胞的な教育では、とても支持を得ることはできない。それでも時として「反日」呼ばわりされてしまうのは、たんにある種の日本人に対する配慮がないというだけのことだ。

反日か親日かは個人の体験次第

だいたい人間というものは、この程度の歴史教育を受けたぐらいで、他の民族を心の底から憎むようになるほど単純なものではない。何に対してどんな感情を抱くかは、個人の社会体験が大きく影響する。朝鮮民族を「反日派」と「親日派」にまっぷたつに分ければ、筆者は確実に後者に入る。日本で暮らしながら差別やイジメを受けた体験など――少なくとも個人的には――一度も無く、そこそこ快適な青春を送ってきたのだから当然だろう。

たしかに、瞬間的に「反日感情」が湧きあがることはある。たとえば大学生の時、北関東にある関東大震災時の朝鮮人虐殺現場を訪れ、犠牲者たちがどのような殺され方をしたかを知った時には、炎のような怒りを感じた。

それでも、その時に添乗してくれていた日本人のバスガイドさんと「お近づきになりたい」という気持ちには、いささかの変化も起きなかったし、親しい隣人たちに対する敵愾心など生まれようもなかった。

また、サッカーの韓日戦で韓国代表が負けようものなら、口もききたくないぐらいに不愉快になるということはある。これについては、昨年行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で同じ思いを味わった日本人も多いはずだが、だからといって、その人が「嫌韓」だとは限らないだろう。

そういえばあのとき、イチローは二度目の韓国戦を前にしながら焼肉をパクつくチームメイトを見つつ、「そういうときに、コリアン・バーベキューの店には意地でも行かないという気概が欲しい」(『ナンバー』4月13日号)と腹を立てたという。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というわけだが、いくら韓国が日本に負けて悔しくても、さすがに「寿司も食えない」というほどへそを曲げる者は、朝鮮学校にもいなかった。

「日本人に負けるな」

ただし朝鮮学校で、「日本人に負けるな」という教育をしているのは事実だ。

これは学校だけでなく、親の教育方針によっては家庭でも厳しく言い聞かせられる。子供を朝鮮学校に通わせていない家庭でも、こういう教育をする親は珍しくない。近年、朝鮮学校のサッカー部やラグビー部が、生徒数の減少にもかかわらず強さを増している背景には、間違いなくこうした教育がある。

では、こうした教育は「反日」ではないのかと問われれば、やはり答は否、である。マジョリティに対して多少の反骨精神を持つことは、世界の多くの国のマイノリティが実践している、「チャンス獲得」のためのノウハウに過ぎない。

学歴がまったく同水準のふたりの若者――在日朝鮮人と日本人が同じ会社に就職し、そこでの仕事ぶりや人柄に対する評価もまったく同程度だと仮定しよう。どちらか一方を先に出世させるとしたら、日本人の上司は日本人の部下を選ぶ可能性が高い。

こういう境遇に置かれたとき、「日本人に負けるな」という教育を受けた者ならば、上司の判断を「差別」と見て恨む前に、自らの努力不足を悔いるだろう。ライバルの日本人と同水準の実力しかないということは、在日朝鮮人にとっては負けを意味するからだ。

反米教育ならたしかにある

もちろん、これは極端な例えであり、朝鮮学校出が皆、これほど強靭な精神力を備えているわけではない。だが、こうした教育には部分的にではあれ、差別の成立を難しくし、「反日」を抑制する効果がある。なぜなら差別にはイジメと似たところがあって、弱い者の前で顕在化し、強い者の前では姿を隠しているものだからだ。

そもそも朝鮮学校の教育は、「反日」というよりも明らかに「反米」だった。「日帝」というのは過去の日本を指す言葉に過ぎなかったが、アメリカに対しては現在進行形で「米帝」と呼んでいた。小学生の頃は筆者もよく「図画」の時間に朝鮮人民軍の戦車が米軍の戦車を破壊する絵を描いたものである。それでも、中学生の頃からすっかりハードロックにはまっていた身としては、自分が「反米」であるとはなかなか言い切ることができない。

どこかの国や民族にアンチを唱えることは、なかなかどうして簡単なことではない。その国の人々や文化と幅広く触れ合い、敬意や愛着を感じていればなおさらだ。そんなことに気付かせてくれたという意味でも、やはり朝鮮学校の民族教育は、「反日」ではないのだ。

以上は、2006年6月発行の別冊宝島『嫌韓流の真実! ザ・在日特権』(宝島社文庫『ザ・在日特権』に改訂)に収められた、ジャーナリスト・李策氏の論考「民族学校に反日教育はあるか?」の全文。野間易通・高英起・李策3氏の鼎談の参考として、期間限定で掲載する。なお、ここに記述されている内容は、執筆当時における事実関係、および筆者の認識に基づいている。

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