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抗日パルチザン出身ではないが、1945年8月にソ連軍が満州国に侵攻した際には現地にいたという。

その後しばらくは北朝鮮で学校の先生をしていたが、地方行政組織である清津市人民委員会の教育担当を経て朝鮮労働党咸鏡北道委員会指導員、同中央委員会指導員、そして外務省局長へとキャリアを重ねていった。

党や軍を渡り歩く

1961年4月には軍事停戦委員会の朝鮮人民軍首席委員に就任しており、軍人としての経歴も積んでいる。1964年8月から朝鮮人民軍の総政治局副局長として勤務。

1966年6月には駐キューバ北朝鮮大使、1971年から外務省局長になって再び外務省で勤務した後に、民族保衛省(防衛省)副相、人民武力部(民族保衛省が改称)副部長を歴任しながら再び軍服を着用するようになった。エジプトを訪問したときには、朝鮮人民軍中将の肩書を持っていた。