朝鮮人民軍 海外戦記/中東編(1)

2010年12月のチュニジア政変を皮切りに、アラブ諸国を揺るがしている「アラブの春」と呼ばれる反政府デモや暴動、政権転覆などは、北朝鮮にも危機感を与えた。そうした動きが自国に波及することではなく、アラブ諸国の政権が転覆し、その国との友好関係が崩れるのを恐れたのだ。

とりわけ危惧したのは、アラブ諸国で最大の人口を擁するエジプトについてであった。

2011年2月11日、それまで30年にもわたり大統領の座にあったホスニー・ムバラクが、副大統領のオマル・スレイマンを通じて辞任を発表した。

すると北朝鮮では、翌日付の労働新聞にエジプト人が書いたとされる「金正日領導者の胆力は朝鮮の国力だ」という題の、長い寄稿文が掲載された。そこには、北朝鮮とエジプトの友好関係の歴史が書かれていた。ムバラク政権の崩壊により、エジプトとの友好関係が損なわれてしまうことへの危機感の表れと言える。

それほどムバラクは、金日成や北朝鮮の“良き友”であった。何しろムバラク統治下のエジプトは、金日成が1994年に死去するまで韓国と国交を結ばなかったほどだ。

北朝鮮にとって痛かったのは、ムバラクの下野だけではなかった。ムバラクの辞任が発表される前日、元エジプト軍参謀総長であり、現代アラブ社会で英雄視されているサアドッディーン・シャーズィリーが息を引き取った。ムバラクとシャーズィリーの関係は非常に悪いものだったのだが、ふたりは金日成や北朝鮮に特別な思い入れを持っていた点で共通していた。北朝鮮は2011年2月に、エジプトにおける最も良き理解者を2人も失ったのである。

では、ムバラクとシャーズィリーを北朝鮮と結び付けたものは何か。それは、第4次中東戦争(1973年)における北朝鮮空軍パイロットの参戦である。

イスラエル軍の「敗北感」

イスラエル側では「ヨム・キプール(贖罪日)戦争」、アラブ側では「10月戦争」と呼ばれている第4次中東戦争は、エジプトとシリアを中心としたアラブ諸国がイスラエルに先制攻撃を仕掛けたことで始まった。

1948年の建国宣言以来、断続的にアラブ諸国との戦争を行ってきたイスラエルにとって、「敗北感」を味わったのはこのときが初めてだった。

一方、北朝鮮の空軍パイロットにとっては、ベトナム戦争に続く海外参戦となった。

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北朝鮮空軍のMIG21戦闘機(資料写真)

長らく秘密にされてきたベトナム戦争のケースとは異なり、第4次中東戦争への参戦は、北朝鮮も早くから対外的に明らかにしていた。

1983年4月4日にムバラクが北朝鮮を訪問した際、金日成は歓迎宴で「1973年10月戦争のときにはわが国の飛行士が直接エジプトの兄弟とともにひとつの戦線で肩を並べて戦いました」と語った。金日成の生前である1994年4月に出版された『金日成著作集』40巻では、金日成自身が第4次中東戦争への参戦について語った部分がある。

しかし一部では、これより早く北朝鮮の参戦の事実が知られていた。筆者もエジプト研究で知られる日本大学の横田貴之准教授から教えられて知ったのだが、第4次中東戦争で参謀総長としてエジプト軍を指揮したシャーズィリーが、1980年に出版した英語版の回顧録にその事実を記しているのだ。

ベトナム参戦とは異なる「目的」

もっとも、この回顧録には英語版のほか、1979年に発行されたアラブ語版がある。英語版はアラブ語版の抄訳であって、北朝鮮の部分がかなり削られている。アラブ語版はエジプトで発禁処分を受けたため、長い間、閲覧不可能であった。再版されたアラブ語版の北朝鮮の部分を翻訳して日本語で紹介したのが、イスラム研究で知られる東京大学の池内恵准教授である。

このシャーズィリーの回顧録が、北朝鮮空軍パイロットによる第4次中東戦争への参戦についての最も詳しい資料になるが、他にも『金日成全集』や『自主偉業の偉大な首領金日成同志』、先述の「金正日領導者の胆力は朝鮮の国力だ」など北朝鮮で出された文献にも、参戦の状況が記されている。

それにしても、第4次中東戦争への参戦を決めた金日成の動機は何だったのか。

ベトナムに送られた北朝鮮の空軍パイロットたちは、社会主義の友邦を助け、社会主義陣営における祖国の地位を高めるという使命を負わされていた。

しかし中東の空における北朝鮮の戦いには、大きく異なる目的が込められていたのである。(つづく)

(宮本 悟 聖学院大学教授)

【連載:朝鮮人民軍 海外戦記】
中東編(2) ベトナムに続き第4次中東戦争に参戦した北朝鮮の狙いとは!?

朝鮮人民軍 海外戦記

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宮本 悟(みやもと・さとる)

聖学院大学基礎総合教育部特任教授。1970年生まれ。1992年、同志社大学法学部卒。1999年、ソウル大学政治学科修士課程修了(政治学修士号)。2005年、神戸大学大学院法学研究科博士後期課程修了(博士号/政治学)。2006年から日本国際問題研究所研究員、2009年から聖学院大学総合研究所准教授などを経て、2014年から現職。

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