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金正日が1970年代から側近を管理して党・政・軍の実力者を自分に引き入れるために始めた’秘密パーティー’は、金日成が解放以後、1948年の建国まで、当時北朝鮮の重要な政客を説得し、抱きこむために行った’料亭政治’に端を発している可能性があると思われる。

こうした事実は、解放後に平壌に駐屯し、北朝鮮で軍政を実施した元ソ連25軍司令部(司令官チスチャコフ大将)の政治担当官、グレゴリー・コノビッチ・メクレル(当時83歳)氏が、91年8月に中央日報の特別取材班に、金日成の特別な料亭政治について証言し、初めて明らかになった。

当時、ソ連の極東軍の政治将校だった彼は、スターリン政府の指示に従って、中佐の階級章をつけて1945年9月初めに平壌に急遽派遣され、1946年9月初めまで1年間、ソ連軍の第25軍政治司令部で、国内の主な政治指導者を管理する任務を遂行した。

メクレルは“(金日成は)政治的リーダーシップと計略がすぐれていた”と述べ、“青年が政治的懸案がある度に、主要な人士を料亭に招待して、和気あいあいとした雰囲気で問題を解いていった”と語った。

更に彼は、“金日成の料亭政治は、チョ・マンシク(?晩植)は勿論、キム・ヨンボム(金鎔範)やオ・ギソプ(呉淇燮)など、1940年代の国内の共産系列の指導者には、想像することもできない発想だった”と語った。

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メクレルは“金日成はマルクス-レーニン主義の理論と、社会主義政策・党組織などに対する学識を持ってはいなかった”と言いながらも、“政治的リーダーシップと計略はすぐれていた”と明かした。

また、金日成は当時、チョ・マンシクに民族の指導者として礼儀をつくし、朝鮮民主党の創党を勧める時も、数回自宅を尋ねて礼をつくし、建国の問題などを相談したという。

メクレルは一方で、”金日成は表ではチョ・マンシクを大先輩として持ち上げるふりをしていたが、自分たちどうしで集まれば、’反動爺さん’のチョ・マンシクを殺さなければならないと言った”と述べ、”金日成の二重の態度は、人民の信望が厚いチョ・マンシクを意識しなければならない状況で、彼を抱きこんでもよいという了解を、スターリンにまで求めていたソ連軍の雰囲気を素早く察知したから”と説明した。

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金正日は後継者に指目された1970年代の初めから、秘密パーティーを始めたが、これは単純に遊ぶためのパーティーではなく、自分につく人を作るための重要な政治行事だった。私たちには‘喜び組’が公演をするパーティーとして随分知られているが、実際は金正日が人を使う手段の一環として準備した席だった。

このパーティーに参加する人の中に、比較的‘副部長級’が多い理由も、金正日が1970年代に党の重要な地位を自分についた人で満たすため、このパーティーを利用したからだ。こうした事実は、1982年に韓国に入国して、97年に北朝鮮の工作員によって殺害された李韓英が14年の沈黙を破って1996年に出版した『大同江ロイヤルファミリー, ソウル潜行14年』で明らかにされている。

金日成が金正日に、具体的に人をどのように掌握するのかについて、‘酒と女性を通じて雰囲気をそそり、人を動かす方法’を直接教えたかはわからない。だが、自分の政治的立場を酒と女性が登場する料亭やパーティーを利用して拡大したのは、父も息子も似ている。金日成はかつて、”人を扱う腕前は、息子(金正日氏)が私より一枚上手”と周囲に語っていた。

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3代世襲を準備している金正日が、自分の息子にも酒と女性で人を使う術を教えているのかはわからない。