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北朝鮮北東部、咸鏡北道(ハムギョンブクト)の清津(チョンジン)市は、比較的歴史の短い都市だ。朝鮮王朝時代、この地域の中心は鏡城(キョンソン)だったが、日韓併合前の1908年に日本が清津の開発を始めた。

周辺地域には、鉄鉱石や褐炭が豊富にあることから、金属工業が発達した。1939年に操業を開始した三菱製鉄清津工場は地域有数の製鋼所で、日本の植民地支配から解放された後には、清津製鋼所となった。

しかし、1990年代の大飢饉「苦難の行軍」のころに稼働を停止し、従業員が生き残るために内部の部品を持ち去ったことから、復旧が不可能な状態となり、2014年には解体された。跡地にはマンションやレストラン、広場ができた。

(参考記事:北朝鮮、巨大「製鋼所」を爆破解体…90年代から稼働中断

米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)の咸鏡北道(ハムギョンブクト)の情報筋は、製鋼所が稼働していた当時は、煙突からの煙と、石炭の粉で、息ができないほどだったと振り返った。洗濯して家の庭に干した白い服全体に黒いシミがつくほど大気汚染が深刻だったという。

ところが、苦難の行軍の頃に稼働を中断して以降、清津に青い空が戻ってきた。金正日総書記の指示で、跡地に様々な施設が建設された。10年もかかったが、市内中心部は大きな変貌を遂げ、市民は喜んでいた。

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それが、今になって製鋼所が復活するとの話が降って湧いた。市民の多くも情報筋も、この計画には否定的だ。

「清津市都市発展展望計画では、清津製鋼所の跡には多くの新築マンションが建てられることになっているのに、それをすべて無視し、製鋼所を復活させてどうするのか」

別の情報筋は、「30年も息絶えていた製鋼所の復活は喜んでしかるべき」としつつも、市民のほとんどは復活に否定的だと伝えた。やはり理由は大気汚染だ。

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「製鋼所と製鉄所から発生するひどい公害は、昔から問題視されてきた。だからといって製鋼所をなくすわけにもいかず、金日成主席の時代に、都市そのものを移転させることになった」(情報筋)

煤煙の影響の少ない、市内の南部にニュータウンを造成して、市内中心部に住む住民を移住させ、公共機関も移転させるというビッグプロジェクトだ。しかし、苦難の行軍のせいで計画はストップ。金正恩時代になってからは、南部ではなく、市内中心部の整備計画が進められた。

金正恩氏は、そんな歴史的流れを知ってか知らずか、製鋼所を復活させようとしている。

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「市民は皆が皆、製鋼所の撤去に喜んだが、また復活させるという話が出て、市民が不安がっている」(情報筋)

北朝鮮では、日本の植民地時代に建設されたものや、朝鮮戦争後に旧共産圏からの支援された設備など、老朽化した設備が未だに使われ続けている。生産性は低く、故障が頻発する上に、深刻な汚染も引き起こす。設備を新しくしたとしても、汚染への不安は残る。

(参考記事:北朝鮮、大気汚染での死亡率が世界最高

金正恩氏は最近、製鋼所跡周辺に元々あった公園に乗馬クラブを建設し、市民の不興を買っているが、製鋼所が復活するとなると、もはや乗馬を優雅に楽しむ環境ではなくなってしまう。また、高級マンション、野外音楽堂はもちろんのこと、金日成氏、金正日氏の銅像もススまみれになってしまう。結局、市民が駆り出され頻繁に銅像の掃除をさせられることになる。

かつては鉄の街だった清津だが、今では全国有数の流通の拠点として発展している。中国やロシアから輸入された製品や、周辺地域で取れた農水産物が清津の水南(スナム)市場に集められ、全国に出荷されていく。そんな時代や周辺環境の変化を無視して、思いつきでハコモノ建設に乗り出す金正恩氏のやり方が、市民の支持を得るのは難しいだろう。

(参考記事:金正恩の「乗馬狂い」に飢える国民が大反発