収容所の劣悪な環境と暴力に耐えられず脱北しようとして逮捕された者や、保衛部員に反抗したり殴ったりした者は、収容者らが見守る中で絞首刑に処されたり銃殺されることで知られている。
収監者らは「首領の肖像画を破損した」「キリスト教を信じた」「体制を誹謗した」などの理由で、まともな裁判を一度も受けられないまま収容所に連れて行かれた。連座制を適用し、その家族までも一緒に収監される場合も数多く存在した。北朝鮮は11カ所の収容所を運営していたが、国際社会の非難世論が高まると6カ所に統廃合した。収容所出身の脱北者の証言によると、現在の収監者は15万人に達する。
初期の政治犯収容所は金日成が権力を把握する過程で政敵を粛清する目的で活用されたが、1973年に金正日の後継枢軸を構築するために3大革命小組運動が始まると共に規模が急速度に大きくなり始めた。
住民を思想奴隷に転落させた「10大原則」
また、金正日は住民を思想的奴隷に転落させた。金正日は1970年代に叔父の金英柱(キム・ヨンジュ)との後継者競争の過程で、金日成の歓心を買うために「党唯一思想体系」を確立するという名目で金日成の個人崇拝キャンペーンを直接主導した。