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2度目の飢餓の経験は1995年の夏、金日成の死亡の翌年だった。朝鮮民主主義人民共和国の建国以来初めて、平壌市で3ヶ月間食糧の配給をもらえないという非常事態が起った。咸鏡道の方では既に、90年代初頭から飢え始めたといううわさが広まっていた。国家の配給だけに頼ってきた多くの平壌市民は、極度に苛立った。文学作家たちは本棚の本を麻袋に入れて市場に出て座った。ある女性詩人は路地の市場で夕方ごとに麺商売をした。お腹をすかせたまま大学に出勤した教授たちは元気がなく、椅子に座って講義をした。

食糧不足は生活必需品の不足の連鎖反応を起こした。せっけんが不足した。塩が時々刻々手に入りにくくなった。塩がすぐに無くなり、私も空の食器を持ってアパートを昇り下りして、顔みしりの家を訪問することが何回もあった。醤油やみそは食べなくなって久しかった。水道水も出なかった。暖房が中断し、子供たちは部屋の中で凍傷にかかった。米を炊く石油さえ供給されなかった。

人々はますますやつれて行った。歯磨きは朝起きて塩で一度して、靴下は一度洗えば一週間以上はいた。人々が集まる公共の場所は、どこも足のにおいが鼻を突いた。こぎれいだった作家同盟の詩人たちが、冬の間洗うことができずに、油でてかっている冬服を恥じらいも無く着ていた。市内の中心地にある託児所の園児たち(富裕な家の子供たちが大部分)の頭に、しらみがみつかった。職場ではお弁当を持って出勤した人がむしろ恥ずかしがっているほどだった。1日に何度も事務所でも家でも、門をたたいて食べ物を物乞いする人が来て、2倍くたびれた。

食糧がまったくなくなった我が家でも、誰かがくれた豆腐の残り物で、3日間耐えたことがあった。両足が震えて来て、赤ん坊をおぶって汗を流し、食事を1食もらおうと、友達の家を訪問したこともあった。道を歩いている途中、お尻の関節がひどくしびれてきて、到底足を運ぶことができずに涙をのんだままその場にしばらく立っていたこともあった。幸い、懐に1~2ウォンでも入っている日は、近くの売店に行って飴を数粒だけ買って食べた。そうしたらすぐに痛みがやわらいだ。懐にたった50銭もない日はそれさえ不可能だった。

60世帯が集まって住んでいた原子力工業総局の職員のアパートで、私たちのように極度の食糧危機に見舞われた家が5軒ほどはあった。原子力アパートは平壌市でも富裕なアパートに属していた。それでもこの程度だったから、平壌市では住民の40%以上が我が家ほどの危機に瀕していた。炭鉱、鉱山、軍需企業が集まっている地域では、飢えている人の数が90%に達した。

飢えは理性、良心、情緒を全て破壊

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追放されて北の地方に来たら、人々全てに精神がなかった。彼らの思考はただ、食べることだけに集中していた。一種の幻覚状態だった。子供、大人、妊婦、若者、全ての人がそうだった。食べ物のためならば、誰でも嘘をつくことができるように準備していた。元気がある若者はお弁当1つのために命をかけて強奪をした。子供たちは食べ物ならば、嘔吐した物でも腐った物でも飛びつき、犬のようになめた。

80年代半ばまで、北朝鮮の人々は情緒観念を最高と考えていた。外貨商店ができ、性売買をする女性たちが現れたといううわさが流れた。すると知識人たちは、‘国が滅びる時は、女性たちから捨てられる’と時代を嘆いた。当時は誰も飢えを逃れるために、女性が性売買に出ることがあり得るとは考えもしなかった。

だが10年後、彼らの思考は180度変わった。全国家的な飢餓の前に、気位いが高い清教徒的な精神が謙虚になった。女性たちが1食の食事のために身を渡すしかない現実を理解したのだった。

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人間を動物化させる絶対飢餓!その前で理念や定見、情緒や思想は立つ瀬がない。まさにこのたった1つの理由のために、飢餓の地を脱出した脱北女性たちの経験した行為がどんな非人間的なものと言っても、私は彼女たちを理解して同情し、彼女たちの脱北を全面的に支持せざるを得ない。

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