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今年5月、北朝鮮は両江道(リャンガンド)の三水(サムス)発電所の竣工式を執り行った。国営の朝鮮中央テレビは「先軍時代の記念碑的創造物として見事に建設された三水発電所」という番組を集中的に放送、宣伝に務めた。

この三水発電所だが、1970年の朝鮮労働党第5回大会のころから建設についての議論が始まったが、予定地の地質がダム建設に不適合だとの理由で立ち消えになっていた。

そんなプロジェクトが再び日の目を見たのは、朝鮮労働党組織指導部と宣伝扇動部の権力闘争暗躍がきっかけだ。発電所は2000年代中盤に宣伝扇動部を率い、その復活を夢見た担当秘書の鄭夏鉄(チョン・ハチョル)氏と、中央委員会第1副部長の崔春晃(チェ・チュンファン)の急成長と没落の象徴だ。

発電所建設で将軍様の信任を勝ち取れ

北朝鮮が大飢饉「苦難の行軍」の真っ只中にあった1999年6月18日、金正日総書記は両江道一帯を視察した上で、革命の聖地である三池淵(サムジヨン)建設に関する指示を下した。プロジェクトを任されたのは宣伝扇動部だった。

それに基づき立ち上げられたのが「党思想宣伝活動突撃隊」、略称6.18突撃隊だった。突撃隊とは、志願者からなるボランティアの建設労働者の部隊だが、実質的には半強制だ。2000年12月から人員が強制招集され、2001年4月15日に発足式を開いた。人員は延べ5万人。

(参考記事:盗む!暴れる!鉄道工事「6.18突撃隊」がまるでチンピラ

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金正日氏は、数十万とも言われる餓死者を出した苦難の行軍にも「共和国(北朝鮮)は死なずに生きており、更に強大になった」として、突撃隊を利用しての国家的建設が、反転攻勢の手段と考えていた。

一方の宣伝扇動部は、この発電所工事を別の反転攻勢の機会と考えていた。

1970年代、金正日氏が文化芸術部門を牛耳るようになったことで、中央党の中では宣伝扇動部が最も力のある部署となった。しかし、1980年の朝鮮労働党第6回大会で、金正日氏が中央党(朝鮮労働党中央委員会)組織秘書として表舞台に立ったことをきっかけに、権力の中心は組織指導部へと移動してしまった。

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それ以降、格下扱いされてきた宣伝扇動部が、組織指導部との競争関係になったきっかけは、他ならぬ「苦難の行軍」だった。

ほとんどの資源が底をつき、党組織すらまともに機能しなくなった状態だったが、宣伝扇動部は「帝国主義者と内外の敵の反共和国孤立抹殺策動を粉砕しよう」と騒ぎ立てた。そして自然災害は「一時の難関」に過ぎないと国民を欺いた。

このキャンペーンを通じて名を馳せたのは、宣伝扇動部第1副部長崔春晃氏と2000年に宣伝扇動部長に昇進した中央放送委員長の鄭夏哲氏だった。

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それまでの序列に名前のなかった二人が、「苦難の行軍」をきっかけに金正日氏の最も忠実な側近として名前が上がったのだった。1999年、崔春晃氏が金正日氏の視察に同行した回数は40回以上。最も親しい側近だけが集まる秘密パーティにも欠かせない存在となった。

崔春晃氏は、三池淵1号道路(金正日氏が利用する道路)の建設を終えるや、宣伝扇動部が金正日氏の信任を得るために、三水発電所の建設を提案したというわけだ。

組織指導部の反撃

金正日氏の信任を宣伝扇動部に奪われた組織指導部は、おとなしく黙っているはずがなかった。

宣伝扇動部が三水発電所の建設を提案すると、組織指導部はすぐにブレーキをかけ始めた。採取工業省と探査管理局の調査団まで派遣して、地質構造的に建設は不可能であることを証明しようとした。また、水が漏れれば近隣の恵山鉱山が水没するとの主張も提起した。

対する宣伝扇動部は、自らの主張を貫徹するために地質調査を実施した上で、フランス式砂石堰堤(石と土で固めたダム)にするとコストを大幅にカットできる、石灰岩層の底にセメントと泥を1メートル以上の層を作れば漏水を防げるなどと主張した。

国民の士気と結束力を高める方法を探していた金正日氏は、宣伝扇動部の話に乗った。2004年2月、恵山市郊外の長安里(チャンアンリ)の、雲寵江(ウンチョンガン)と虚川江(ホチョンガン)の合流地点で、6.18突撃隊の人員3万人が集まって工事が始まった。

自らの主張が聞き入れられなかったと言って、黙っている組織指導部ではなかった。彼らが利用したのは「結婚式」だった。

崔春晃氏の娘と朝鮮体育指導委員会某幹部の息子が結婚することとなり、2004年3月に結婚式を挙げた。中央党など宣伝扇動部の覚えを良くしたい多くの幹部が先を争って結婚式に参加し、1人あたり1000ドルの祝儀を渡した。

権力層の結婚式としてはごく一般的なものだったが、組織指導部はイチャモンをつけた。結婚式にタイミングを合わせて全国的にスルプン(酒を飲んで騒いだりする風紀紊乱行為)に反対する大キャンペーンを始めたのだ。そして、多くの結婚式参加者を「職務怠慢、修正主義遊び人風」の行為を行ったとして、摘発した。

崔春晃氏は党内部の秩序に違反した「枝葉(キョッカジ)」だとして、撤職(更迭)された。通常、「枝葉」とは傍系のことを指すが、ここでは最高指導者の周囲で宗派(分派)を形成することを指す。

粛清を逃れた鄭夏鉄氏だったが、翌年の反スルプンキャンペーンで摘発され、平安北道(ピョンアンブクト)北倉(プクチャン)郡にある政治犯収容所(18号管理所)に収監された。6.18突撃隊も組織指導部の傘下に組み込まれた。

権力闘争に勝利した組織指導部だったが、その後は安泰とは言えなかった。組織指導部の第1副部長ら3人が、2010年から2011年にかけての9ヶ月間に相次いで死亡したが、そのうちの一人、2010年6月に交通事故で亡くなった李済鋼(リ・ジェガン)氏を巡っては、後に処刑された張成沢(チャン・ソンテク)元党行政部長の政敵だったこともあり、「交通事故を装った暗殺ではないか」との噂が立った。

(参考記事:北朝鮮、9ヶ月間で労働党幹部3人死亡のミステリー

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