金正日の内縁の妻、成恵琳と高ヨンヒとは?【上】 から続く

成恵琳(ソン・ヘリム)はその後、李平(リ・ピョン)と離婚した。1968年からは映画への出演をやめ、金正日との恋愛にのめり込んでいったようだ。1969年からは同棲を始め、その翌年には中城洞(チュンソンドン)の15号官邸に入り、金正男(キム・ジョンナム)を産んだ。だが、金正日は成恵琳との暮らしも、金正男の誕生も徹底して秘密に付した。

成恵琳と金正男は、金正日の最も愛すべき家族であると同時に、世間には絶対に知られてはならない存在だった。彼らの暮らした官邸は、金正日の作った高い壁に囲まれた「華麗なる牢獄」だったのだ。

金正日の2番目の恋人は「喜び組」

金正日は1974年、父・金日成の勧めで金英淑(キム・ヨンスク)と結婚した。彼女は今に至るまで、金正日の唯一の公式の妻だ。その2年後、金正日は高ヨンヒ(コ・ヨンヒ)という女性との同棲を始めたが、成恵琳と金正男のことで、随分悩んだ。それを知った金正日の妹、金慶姫(キム・ギョンヒ)は成恵琳にこんなことを言ってしまったのだ。

「お姉さん(成恵琳)はお兄さん(金正日)より年上で、一度は結婚して子どもも産んでいるのだから、この家から出ていってください。正男は私が育てるし、お姉さんの老後はちゃんと保障しますから」

当時の価値観を考えると、金慶姫は必ずしも悪意を持って放った言葉ではないようだが、成恵琳には非常にショッキングなものだった。「いつ子供を奪われて追い出されるかわからない」と考えるようになった成恵琳は、いつしか心と体を病んでしまった。そして1974年、療養のために平壌を離れ、モスクワへと向かった。

しかし、体調が優れない日々が続き、1970年代後半には、注射を打ってもらっても寝られず、毎晩のように救急車を呼ぶほどだったという。不安障害の発作は本人もさることながら、周りで見守る人びとにとっても辛いことだった。成恵琳が亡くなったのは2002年のことだ。

一方の金正日は、2番目の内縁の妻である高ヨンヒと共に暮らしていた。

1952年生まれの彼女は万寿台芸術団元舞踊家として活躍していた。日本公演で脚光を浴びた。同時に「喜び組」として活動していた彼女は、1975年ごろから金正日の秘密パーティに参加し、金正日の隣に座るようになったという。

ディズニーランドに遊びに行く

彼女はパーティ会場に入る時から金正日に連れ添い、上着を脱がせ、共にダンスを楽しだ。二人はベンツを飛ばして、韓国の歌を聞きながら一晩中ドライブをしていた。

高ヨンヒはやがて、蒼光山(チャングァンサン)官邸でクラスようになり、1981年に息子の金正哲(キム・ジョンチョル)を産んだ。名付け親は、腹違いの兄金正男の母方の祖母、キム・ウォンジュだ。金正日が直々に頼んだことだという。

1983年、高ヨンヒは金正恩(キム・ジョンウン)を産んだ。金正日の関心は、正男から正哲、正恩兄弟に移っていった。

高ヨンヒは、1950年代に日本から北朝鮮に渡った在日朝鮮人だ。彼らは「チェポ」(在胞)と呼ばれ、差別の対象となり、政治的、社会的に様々な不利益をこうむってきた。労働党に入党することも、職員として務めることもできなければ、司法、外交、航空、海運部門で採用されない。軍に入っても将校にはなれない。1つの機関に、1.5%以上の在日同胞を配置してはならないことになっていた。

そのため、彼らは経済、技術、芸術、スポーツ分野に集中した。高ヨンヒもそのような差別的取扱いの影響を受け、万寿台芸術団の舞踊団員になったのだった。

高ヨンヒは明るく親切で耐え忍ぶ人だったと、金正日の専属料理人であった藤本健二氏が証言している。金正日は、高ヨンヒが子どもたちを連れてヨーロッパ旅行や東京ディズニーランドに遊びに行くことを許すほど、彼女を信頼していた。また、地方への現地視察には必ず同行する事実上の「ファースト・レディ」だった。

高ヨンヒはフランスでガンの治療を受けて北朝鮮に帰国した後の2004年8月に亡くなった。北朝鮮では、金正日と高ヨンヒの同棲生活はもちろんのこと、高ヨンヒの存在も死も徹底的に秘密に付されている。二人の関係については、藤本健二氏の証言がほぼ唯一のものだ。

【関連記事】 金正日の女性関係, 数知れぬ犠牲者たち