朝鮮中央通信など北朝鮮メディアは6月30日、金正恩党委員長が中国と国境を接する平安北道(ピョンアンブクト)の薪島(シンド)を視察したと報じた。朝鮮中央テレビが放映したその際の映像を見ると、金正恩氏が古ぼけた小型車に乗り込んでいるのがわかる。

共同通信によれば、この車はロシア製の「ラーダ・プリオラ」で、2007年から販売を開始。100万台以上が生産された大衆車だという。金正恩氏が乗る車と言えば、ベンツの印象が強い。6月12日の米朝首脳会談に際しても、大型の専用ベンツをわざわざシンガポールまで空輸している。

(参考記事:【写真】なぜ? 正恩氏がロシア製大衆車

また、金正恩氏は自らステアリングを握る「走り屋」とも言われ、複数台のベンツを所有。高速道路で彼の車を追い越してしまったがために、悲惨な運命に追いやられた軍幹部もいたと聞く。

(参考記事:金正恩氏の「高級ベンツ」を追い越した北朝鮮軍人の悲惨な末路

金正恩氏専用のベンツには、ある秘密があると言われる。金正恩氏は、一般人と同じトイレを使えないという苦しい事情があるとされ、それをカバーするための装備が専用ベンツに積まれているというのだ。

(参考記事:金正恩氏が一般人と同じトイレを使えない訳

金正恩氏は農場などを視察する際には専用のレンジローバーを使用しているようだが、いずれにせよ、上記のような特殊装備を運ぶには、ベンツなどのように車内空間の大きな車種でなければならないのかもしれない。

しかし、今回の視察で中古の小型車を使ったということは、彼の「トイレ問題」は解決されたのだろうか?

筆者には、そのようには考えられない。おそらくこれは、金正恩氏の「ざっくばらんな指導者」像を打ち出すためのイメージ戦略だ。彼が乗った小型車には、まず間違いなく、専用レンジローバーなどの支援車両が随伴していたはずだ。

金正恩氏が行動する際、北朝鮮当局は、複数台の専用車両を用いた複雑なオペレーションを展開してきた。

最近はどうかわからないが、少なくとも北朝鮮が弾道ミサイル発射を繰り返していた昨年まで、米国は極秘にされている金正恩氏の動線を知るために、偵察衛星で絶えず専用車の動きを追跡していたとされる。仮に金正恩氏の排除を狙うなら、専用車やその行く先をステルス戦闘機などで急襲するのが最も近道だったはずだ。

金正恩氏にとっては、たいへんなリスクだ。しかし彼は、弾道ミサイルの重要な発射実験の際には、必ず現地で立ち会ってきた。何の実績もないままに父親から権力を継承した金正恩氏は、米軍の偵察衛星にわが身をさらしながら弾道ミサイルの発射を現地で指揮し、最前線にも直々に乗り込むなどの行動を重ねながら、命がけで指導者としての権威を高めてきたのだ。

それを可能にしていたのが、複数台の専用車両を用いた「欺瞞作戦」だったわけだ。米朝対話や南北対話の流れを受け、今回はそれが、金正恩氏の「イメージ戦略」のために発動されたということなのだろう。

(参考記事:金正恩氏が自分の“ヘンな写真”をせっせと公開するのはナゼなのか

高英起(コウ・ヨンギ)

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1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。

脱北者が明かす北朝鮮 (別冊宝島 2516) 北朝鮮ポップスの世界 金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔 (宝島社新書) コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記