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大規模な歓迎行事が行われた道に沿ってキム先生と共に歩いた。漆黒のような闇ではなかったが、通りには街灯もなく、アパートの灯りも非常に薄暗かった。私たちが覗けた部屋には全て金日成・金正日の偉大な指導者の写真が壁にかかっていた。金正日は初めは親愛なる指導者であったが、今は偉大な指導者となっていた。

彼の父(金日成氏)は『永遠の主席』で、北朝鮮の最高の権力者だ。北朝鮮の人民は地上の楽園を離れた永遠の主席の不滅を毎晩切実に願うのである。

通りには車がほとんどなかった。時々過ぎ行くチェコ制の電車には沢山の乗客が乗っており、通りはとても暗く通る人々の影さえはっきりとは見えなかった。このような雰囲気だったので平壌に酒場が多くないのはもう明らかだった。金日成広場の近くの焼肉屋に着くまでは少し時間がかかった。そこは一般人が多く訪れる場所であった。中国製ヤンジンビールを売って外国人用の金を受け取っていた。特に高級に見えはしなかったが、北朝鮮では明らかに高級レストランだった。北朝鮮には数種類ものお金がある。西側の貨幣は青色のお金に両替され、指定された場所だけで使える。茶色のお金は北朝鮮人民のためのもので、外国人が持つことはできない。

ニコラスとキム先生は以前の北朝鮮訪問をを回想していた。ニコラスは1998年にこちらに始めて来た。平壌国際映画祭に参加するためであった。彼は1999年4月の文化祭に再び招待され、スイス代表団の首席の役割を果たした。その際に金メダルなのか最優秀賞なのかはっきりしないが、何らかの賞を受賞したと言った。ニコラスは何週間前にソク同志から手紙を一通受け取っていた。それが『朝鮮映画祭』に招待するという内容だったのである。ニコラスをなぜ招待したのかは明日朝になれば分かるだろう。

次の日の朝、北朝鮮を訪問した人であれば必ず参加しなければならない公式儀式が待っていた。それは万寿台丘の金日成銅像の前に献花することだ。平壌市はどこに行っても英雄を賛える記念碑であふれかえっていた。その日は厳粛な行事に似合うような肌寒い朝だった。私はペク先生がくれた花束をたくさんの花の上にそっと置いた。そして僕たちの案内員は追悼行事の写真を撮った。

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万寿台から降りて私達は柳京ホテル、(柳京ホテルは1982年着工し1992年に一時中断、2008年に工事が再開されたホテルである)いや作りかけのホテルの工事の国「を詳しく見ることができた。ピラミッドの形をした105階の柳京ホテルは、平壌のスカイラインを派手に飾っていた。本来は朝鮮半島で最も高いホテルを作ろうとしたという。奄ノよれば、韓国の会社がシンガポールに103階ホテルを建設するということを聞いて、金正日がこのホテルの着工を指示したという。

金正日は北朝鮮の首都にさらに高い建物を作ることを望んだ。特に1988年のソウルオリンピックを備えての話であった。だが、88年のオリンピックは韓国だけの行事で終わってしまい、北朝鮮は全く参加できなかった。それでも北朝鮮は1991まで建物を建設したが、1992年に結局工事を中断してしまったのだ。七つの回転式レストランを整えている上に、高さ300メートルを越える平壌のこのホテルは未だに完工する気配は無い。北朝鮮には完成させるだけの金も、専門技術も計画もない。からっぽの殼のようなホテルだけが建っているだけであった。平壌で売っているハガキはホテルの窓に夕日が沈む光景を描きながら柳京ホテルを紹介している。