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中国に来て、一つの事実は確かに確認した。こんなに自由で豊かに暮らすことができるという事実だった。北朝鮮で聞いた消息が事実ということを目で確認することができた。

だが、そこも私の天国ではなかった。私は不法滞在者だったし、公安に捕まれば北朝鮮に送還されなければならない運命だった。路頭にさまよい、数日間空腹に苦しんだ。喉が渇けばトイレに行って水道水を飲んだ。本当に死にたかった。

最初は市場でもの乞いをした。その時、あるお婆さんに出会って、風呂場で垢こすりの仕事をするようになった。

だが、結局お金儲けにならなかった。当時、延吉は脱北者の索出がひどすぎて、ある宣教師の助けで、西安に行くことになった。西安は中国奥地の内陸地方にあり、延吉から汽車で3日かかったが、そこまで行った理由は、何よりも公安の取り締まりがそれほど厳しくはないと思ったからだった。

到着したら、既に多くの脱北者たちが宣教師が用意した家に住んでいた。私が入って行った所は17坪のアパートだったが、男性が13人集まっていた。家の中がぎゅうぎゅう詰めだったのは言うまでもない。

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そこは98年からある北朝鮮宣教師が運営していた訓練所だった。宣教師は北朝鮮宣教を志して100人余りの脱北者たちを教育していたが、私たちは1日中聖書通読をしなければならなかった。外出は保安上の理由で絶対に禁止された。

不満が多かった。当然、行く所がなかった私たちとしては、宣教師の言葉を聞かなければならなかった。心に響かない聖書を1日中読むことは苦役だった。

実は、宣教師の先生の立場では、私たちがキリスト教に関心がなければ面倒を見てくれる理由がなかったはずだ。今は理解する。1人で多くの脱北者たちの面倒を見ることも大変だったろう。

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だが、そこにいた時はそのように考える余裕がなかった。しかも、みんな一緒に集まっているから、いつも言うことは宣教師に対する不満だった。13人の不平不満が増幅して、そこがまた他の名前の収容所のように感じられた。あまりにも辛かった。

1日10時間ずつ聖書を読んだ。通読テープで韓国語の聖書を読んだが、速度が非常に早くて1日で1読できた。テープから流れる声をただ聞いていればよかった。朝6時に起きて、夜明けのお祈りの後、食事をする時間を除いてそのテープを聞き続けた。

最初は言葉が違って、聖書が難しくて理解できないことが多かったが、30回も読んだら少しは入って来たようだ。体系的に学ばなかったが、たくさん読んだだけ、聖書に対する知識もかなり増えたようだった。

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だが、そんな生活も長続きしなかった。私が入って行ってから1ヶ月後に、大々的な捜索作戦があり、私たちはみんな捕まって北朝鮮に送還されてしまった。2001年6月のことだった。

本当にすごい鎭圧作戦だった。76人の脱北者がつかまったが、多くの所に分散していた場所がすべて鎭圧された。鎭圧当時、中国公安は防弾チョッキに実弾まで準備していた。2個中隊が動員された。

後で分かったが、内部に背信者がいたそうだ。北朝鮮の保衛部に申告したその人は、私たちの居場所をすべて言い、私たちが秘密武装テロ集団だと言った。そのため公安がそのように重武装をしたのだった。

(この話はこの間出た本、‘私は死んでもいいです’にも詳しく記述されている。著者であるチェ・クァン宣教師が私が会ったその宣教師だ)

その後、宣教師は大韓民国に追放された。私たちは送還されて残酷な殴打と調査に苦しんだ。

最初に送還されたら、保衛部が調査することが2つあった。韓国人との接触と宣教師、またはキリスト教に接したかということだ。

この2つにひっかかれば、政治犯収容所に送られる確率がとても高い。私たちは集団で宣教訓練を受けて捕まったから、調査期間が長くて厳しかった。

中国の監獄に2ヶ月ほどいて送還されて、70日ほど保衛部で調査を受けた。正座の姿勢であまりに長く座らされた。

他の人が宣教師の所に3年ほどいたのに比べて、私は1ヶ月だけいたため、5回調査を受けただけだった。調査を受けて、私は無条件、キリストという人物が分からないと白を切った。1ヶ月しかいなかったので、聖書もよく分からなくて、キリスト教は絶対に信じないと言った。

結局、逮捕後1年ほど監獄にいた後、無事に家に帰ることができた。しかし、その後他の人々はどうなったのか、知ることはできなかった。多くは収容所に送られ、何人かは亡くなったと聞いた。

再び北朝鮮を脱出するまで…

監獄から出たのが2002年4月だった。その後、2002年7月1日に、7.1経済改善措置というのが金正日から下った。市場の合法化が主な骨子だった。

期待が本当に大きかった。何か変わるだろうと考えたし、北朝鮮もよくなるだろうという希望を持った。中国であまりにも苦労をしたから、家に無事に帰った後は、絶対に中国には行かないと決心した。

だが、北朝鮮の現実に私はじっとしていることができなかった。経済改善措置も北朝鮮をそれほど変えることはできなかった。

当時、就職をして8月1日に初めて月給をもらった。経済改善措置以後、初めてもらう月給だった。1200ウォンの月給をもらって市場に行ってみたら、米1キロが500ウォンもするのだった。

がっかりした。経済改善措置以後、インフレは手におえることができない状態だった。変わったことは何もなかった。

職場でする仕事も台無しだった。月給を与えるために仕事をさせるが、電信柱を建てるために土を掘る仕事をした。機械も使わずに、シャベルですくい出して土を堀ったが、雨が降れば元の状態に戻った。あまりにも虚しかった。

経済改善措置にも希望を失った私は結局、韓国行きをもう一度試みた。中国に行って延吉に流れて宣教師に会おうとしたが、取り締まりがひどくてか、誰にも会うことができなかった。知っていた人脈はすべて途切れてしまった。

何回そのように出かけただろうか。結局、インターネットを通じて人脈を捜すことができ、2002年10月に知り合いのつてで、今行っている教会の助けを受け、ついに韓国に来ることができた。

こうして、自由を求め続けた脱出は成功した。

韓国に来て、自由を少し感じながら暮らしている。北朝鮮は故郷だったが、体制が私を締め付け、食べて暮らす道を見出せなかった。中国では食べて暮らすことができたが、不法滞在者の身分はいつも私に付きまとう、かさぶただった。

この大韓民国の自由が、北朝鮮にもあることを願う。いつか統一する日を期待して、私はその時のために準備しようと思う。北朝鮮の人権が改善されることを、脱北者の一人として心から望んでいる。