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今は韓国に来て、開放と自由を享受しているが、数年前まで筆者は、世の中がすべて北朝鮮のようだと思っていた。

北朝鮮に住んでいた時に感じた最大のジレンマは、‘問題はあるのに代案がない’というものだった。

一体どうして私たちが飢えなければならないのか、我が国(朝鮮)はどうしてこんなに貧しいのか分からなかった。問題はあちこちに散らばっていたが、代案がなかった。いくらばたついても、幸せというのは漠然としたものだった。

北朝鮮体制の閉鎖性は、私の想像力を根本的に締め付けていた。私たちだけが飢えて貧しいという事実を知ったら、当然体制を批判して脱出しようと努力したが、言論が遮断されて、外部の世界の情報に接することができないのが現実だった。

そのため、もし北朝鮮体制が昔のように続いていたら、私は脱北しなかったとも思う。苦難の行軍が始まらなかったら、中国という楽園があるとは考えなかったから、私は脱出しようと思わなかったはずだ。

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国が滅びるのではないか

幼い頃から北朝鮮が今のように難しいわけではなかった。私は1980年代に、黄海道で生まれた。人民学校に行くまで、果樹園の真ん中にある家で、母方の祖父母と一緒に、あまり苦労せずに暮らしていた。当時は物資があまり不足していなかった。

人民学校の時、家族がいる会寧に来て暮らし始めたが、その時から少しずつ物が不足し始めた。幼くて、よく分からなかったが、多分89年頃から物資が随分不足していると感じるようになったのではないかと思う。

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その頃から、私を含めた多くの人の人生が、下向き曲線を描き始めた。人民学校3年生の時、成績が急によくなって喜んだりもしたが、よい成績も私の未来を保障してはくれなかった。

大学に入った97年に、私たちの家は破産してしまった。困難が続いていたが、いよいよこの瞬間がきたと思った。小規模で商売をしていたが、元金まで失ってしまった。我が家はもしかしたら、初期の北朝鮮市場の被害者といえるだろう。

1999年には、山に木をとりに行った父が、寝こんで亡くなった。あまりに飢えて疲労がたまったせいだろう。

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父が亡くなった後、一人息子として家長の役目を引き受けた私は、どうしなければならないか深刻に悩み始めた。

その頃から、北朝鮮体制に対して真剣に悩み始めた。苦難の行軍が始まった時は、すぐに過ぎ去ると思っていた飢えと貧困が、一時的なものには感じられなかった。

この国は希望がないということに少しずつ気づき始めた。国が滅亡すれば出世しても無駄だろうと考え、進路さえ不安になった。

その頃、中国に関する消息を聞き始めた。何か希望が見える国、食べる問題で悩むことはない国という言葉が私の耳もとを打った。労働力を売って暮らすことができると考え、1999年の年初の真冬に豆満江を越えた。(続く)