北朝鮮の金正恩党委員長の異母兄である金正男(キム・ジョンナム)氏が猛毒の神経剤VXで殺害された事件は、同氏の遺体と北朝鮮国籍の容疑者らが北朝鮮に引き渡されたことで、あっけない幕切れとなった。

北朝鮮当局は事件を未解決に持ち込んだという点で、外交的に勝利したと思っているのかもしれない。しかし、北朝鮮国内では事件をめぐり、金正恩氏の評判がさらに悪化しているようだ。

「喜び組」暴露され暗殺

世代や地域などによって格差はあるが、金正恩氏に対する評判は決して良くない。なかには、養豚場を現地指導した金正恩氏の写真を見て、「いくらなんでもそれは言い過ぎではないか」と思うほどの悪口を叩く庶民もいる。

平安南道(ピョンアンナムド)に住むデイリーNKの内部情報筋は、金正男氏殺害事件をきっかけに、金正恩氏の評判がさらに悪化したと指摘する。

北朝鮮当局は、金正男氏殺害の情報が国内に拡散することを防ぐため、ありとあらゆる手段を動員したが、噂は予想以上のスピードで広まっている。既に事件直後から、金正男氏殺害の一報を聞いた人々が「明らかに我が共和国(北朝鮮)の仕業だ」という反応を示していた。

さらに、金正男氏殺害事件をきっかけに、金正恩氏のファミリーヒストリーについてよく知らなかった一般庶民も関心を持つようにり、噂はさらに広がり世論が悪化している。

おそらく、20年前の李韓永(イ・ハニョン)氏暗殺事件の情報も、同時に拡散しているだろう。李韓永氏は、喜び組など北朝鮮ロイヤルファミリーの内幕とスキャンダルを暴露したことが金正日総書記の逆鱗に触れ、1997年の2月15日、すなわち金正日氏の生誕記念日(2月16日)の前日に暗殺された。

情報筋によると、金正男氏殺害事件を知った庶民達は、金正恩氏に対して「歴代最悪の破綻家庭」「人間の所業ではない」「幻滅した」「時代劇かよ」などと言ってこき下ろしている。ちなみに「歴代最悪」も「破綻」も北朝鮮メディアが、他者を攻撃する時に頻繁に使う言葉だ。体制が得意とする表現で金正恩氏を非難するとは、北朝鮮庶民は実にユーモアやウィットに富んでいる。

さらに、金正恩氏は朝鮮人民軍(北朝鮮軍)に対する粛清・処刑もためらわないことから、軍内部からは、「いつどこで事件が起きても、一番最初にとばっちりを受けるのはいつも人民軍だ」という不満が出ている。そして、軍幹部の間では「次にさばかれるブタは誰だろうか」と金正恩氏をターゲットにしたブラックジョークまで飛び交うほどだ。

金正恩氏が張成沢氏の粛清・処刑を皮切りに強めた恐怖政治は、一時的に体制を引き締めたのかもしれないが、民意は確実に離反している。

高英起(コウ・ヨンギ)

1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。

脱北者が明かす北朝鮮 (別冊宝島 2516) 北朝鮮ポップスの世界 金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔 (宝島社新書) コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記

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