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1960-70年代の東欧で、共産主義体制に対する抵抗が一番強かった国がポーランドやチェコ、ハンガリーだった。ソビエト連邦の中で、代案エリートの力が最も強かった地域はバルト3国だ。過去15年以上の歴史を見ても、こうした国で最も効果的な民主体制が築かれてきた。

これは決して、偶然のことではない。これらの国々では、共産主義体制が崩壊しても幹部階層に替わって、社会の信頼を得ることができる勢力がすでに形成されていた。独裁政権が崩壊した時、実権を握ることができる民主化勢力があった。

また、反体制代案エリートの影響力が大きな地域では、共産主義時代にも教育や言論、学問などに対する共産党の影響があまり大きくならなかった。もちろん、共産党が政権をとった国家は言論や放送、映画、文学活動まで統制したが, 御用言論会社は国民の信頼を得ることができず、民心をつかむことができなかった。

記者や学者は、共産主義の嘘と歪曲に露骨に挑戦することができなくても、客観的な研究をして、現代的な世界観を表現した。結局こうした国家では国民の大部分が、共産党独裁が強要する体制よりも、効果的な社会が可能だという事実をよく知っていた。

東欧の中でも、幾分例外的ではあるが、ポーランドの経験に目を向けることができる。

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1960-70年代から、ポーランドほど「第2社会」が活発だった東欧国家はなかった。当時、ポーランドで政権と協力した知識人たちは、反民主・反民族的日和見主義者という評価を受けて、蔑視と敵対感を免れることができなかった。ポーランド国民の多くが共産圏の政権を、外部勢力によって押しつけられた反民族・反民主体制とみなしていた。

1980年代初めに、ポーランドで民主化労働運動が勃発した時、ポーランド国民はこの運動を圧倒的に支持して、政権と協力することは恥かしいことだと考えた。1989年に共産党が自由選挙を許容した時、共産党の候補者はたった1人だけ当選した。民主化運動が混乱を引き起こすこともなかった。「第2社会」の出身者たちは、問題なく共産党の幹部と交替することができ、大学や言論会社でも共産主義思想への支持はわずかだった。

当時、ポーランドの民主化運動圏出身者たちには、政治活動にかかわった経験だけでなく、実習活動の経験もあった。その結果、ポーランドでは政治の移行がスムーズに進んだ。非公式の「第2社会」はすんなりと、公式の「第1社会」に変わったのである。

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反対に、代案エリートがいなかったり弱かった共産圏の国家は、脱共産主義の過程で困難を経験した。今でも民主国家を建設することができていない国もある。例えば、旧ソ連時代に代案エリートがほとんどいなかった中央アジア地域には、今も民主主義国家が1つもない。この広い地域には5つも国があるが、そのうち3ヶ国は確実に権威主義国家とみなすことができ、その他の2つの国家も完璧な独裁ではないとしても、権威主義的な傾向がひどい。

共産主義時代に代案エリートがいなかった国では、共産体制が崩れた後も実権をそのまま維持できたのは幹部だけだった。例えば、中央アジアの5つの国家で大統領を務めた人のうち、少し年配の2人は、ソ連時代にも共産党最高責任者である第1書記だったし、年が若い2人はソ連時代に共産党の中級幹部だった。もちろん、これらの国では中級公務員も、圧倒的に共産党幹部出身が多い。

反体制的な知識人を含む代案エリートの影響力がなかった国では、共産党の幹部が政権を独占するだけでなく、経済分野でも決定的な役割を果たしている。この人たちは、もとより共産主義思想をあまり信じておらず、共産主義思想を体制維持のための1つの道具としてのみ見ていた。こうした幹部たちは、1990年代初めに共産主義を古着のように脱いでしまい、自らを「民主政治家」や「市場経済事業家」に改造した。しかし彼らには、昔のように不正腐敗や日和見主義、現代社会に対する無識といった特性がそのまま残っていた。

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共産主義時代に「第2社会」がなかった国々には、体制が変わった後も幹部出身の日和見主義をとり除いたり、統制することができる勢力がほとんどなかった。そのためこうした国家では、経済問題が深刻になり、特に政治問題が多い。また、経済成長をしようとしても、不正腐敗や貧富の格差がひどく、権威主義的傾向が随分見られる。また、残念ながら幹部がそのまま統制している脱共産主義国家の多くが、経済部門でも特に誇らしい成果を出すことができていない。(続く)