報告を聞いた金日成は激怒して「これからすべての重要案件は党の指導部には持っていかず私のところに持ってこい」と指示を下した。それを知った金正日は、金日成に報告した幹部に恨みを抱いて、些細なことで解任してしまった。
金日成は金正日と呼びつけて「党の総秘書として、党組織秘書に警告する」と厳しく叱責した。金正日は父金日成に指導者の資格がないとイエローカードをつきつけられた形だ。
やがて金日成は死去した。そのころから「苦難の行軍」と呼ばれる未曾有の食糧難が発生した。食糧配給システムは崩壊して各地で数十万人に及ぶ餓死者が発生し、人心は金正日の元から完全に離れてしまった。
金正日は、自らの失策の責任をなすりつける人間を探していた。そこで、横領した肥料30トンを親戚に流したという疑いで逮捕され、社会安全部の第7教化所に収監されていた徐寛熙(ソ・グァンヒ)中央党農業書記を利用することにした。
金正日は、「徐寛熙を南朝鮮のスパイとして葬ることを極秘に指示せよ」という命令を下した。張成沢は中央党組職部のリ・チョル社会安全部担当責任指導員と、社会安全部のチェ・ムンドク政治局長と共に計画を立てた。