人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

大車とは積載量が新型ジープ4台分にも相当する鉄の車で、20~30人の収監者が綱をかけて直接引かなければならないものだった。元々大車は酷熹ヌが全巨里駅に米を積みに行く時に使っていたが、伐木班や車の積み下ろし班が大量に物資を運ぶ時にも使われた。

大車は長さ2m、幅1.5mで引き棒の長さは2mあった。みかけは平凡な手押し車と似ていたが、荷物置きと引き棒全体が鉄でできていたのでとても重かった。大車は保安員にとっては燃料がいらないため無くてはならない運送手段だったが、毎年必ず人を殺したり、元気な人を障害者にしたため、収監者たちにとっては「恨み」の対象だった。

大車は大きさと重さがすごかったが、木や米袋を積む時は底から3m以上の高さまで積むため、ものすごく重くなった。普通の車は1人が引いて別の人が後ろから押していたが、大車は20~30人の収監者が綱をかけて一度に引く。力と足を合わせるために、1人が「ヘ~イ」と叫び、他の人たちは「ハ~イ」と叫びながら引いていた。

私も、大車で一度大変な目に会ったことがある。その日の仕事は死んでも忘れないだろう。普段、私たち伐木班では冬になると収監者が山で切った木を教化所の鉄門の前まで直接引いて来るが、夏には大車を持って行って、山から木を一度に積んで来ていた。

木を大車に積む時は、木が崩れないようにギュッと固定することが重要だ。途中で木が落ちないように、大車の上に上がって木をきちんきちんと積む人が必要だが、後で大車を引く時にこの人が方向を指示するのが伐木班の常識になっていた。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

その日私は、いつものように大車の上に上がって木を積んでいたが、急に右目がひきつった。私は特に迷信を信じる人ではないが、右目がひきつる度に良くない事がしばしば起きた。

担当していた指導員が、ぐずぐずするなと悪態をついてきたので、なおさら気分が良くなかった。虫の知らせのため、いつもより木をもっと几帳面に積んで結び目もかたく縛った。車の上から飛び降りて、引き棒の間に入って後ろを振り返ったら、斧で切ったため木の前方がすべて尖っていて、今にでも私の背中に刺さってきそうだった。

これまで、引き棒の間に数百回は入って行ったが、そのように感じたのは初めてだった。私は気持ちをぐっと引きしめて班員に注意するよう言って、危険な区間を1つずつ抜けた。傾斜がひどかったりえぐられている場所を通る時、大車の上に積まれている木が前に傾いて人を襲って来る可能性もあった。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

やっと最後の小川を抜けた時はほっとした。ここから教化所の鉄門までは大きな通りなので危険な区間はなかった。100m前方に上り坂が見えた。その直前は少し下り坂になっていたが、ここから走って速度を出せば、上り坂も容易に上ることができた。班長が叫んだ。

「さあ、上り坂だ。走ろう!」

引き棒の間には私が入っていて、両側から班長と2組の組長がそれぞれ引き棒をつかんで、3人で方向を調節した。だが、ここで問題が起きた。大車に木をあまりにも沢山積んでいたため、とても重くなり普段よりも速度が出てしまったのだった。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

大車の後ろ側では、3人が綱を車に繋いで速度を緩める役割を担当していた。ところが車の速度が早まったため、この人たちも付いて来ることができずに倒れて、引きずられてしまった。 3人が地面に倒れたため、車の横にいた人たちも巻き込まれて、みんなが自分の定位置でスムーズに動くことができなくなった。

転んだ3人が持っていた綱がはずれて、制御できなくなった車の速度が一層早まった。大車の速度が早くなり、横にいた人たちも付いて来ることができなくなって車から離れてしまった。前にいた私と班長、2組の組長は車の後ろで何が起きていたのか知らなかった。

車の速度が早まったので、バランスをとるために後ろから1人が車に乗りこんだ。下り坂では車の積荷の重みが前方に傾くため、私のように引き棒で方向を定める人の方に傾く。

方向を定めている人が重みに堪えることができずに車の引き棒を置いたら、車は急停車して積んでいた木が前の人を襲うことになる。だが、後ろに人が乗りこんで車が後方に傾いたため、引き棒を握っていた私の体が空中にぶんと浮かんだ。

その時すでに、大車の周りには前に3人、両側に2人、後ろに1人だけがいた状態だった。私は足が宙に浮いていたため、車の速度を全く制御することができなかった。

「おい、後ろから押すなよ!」

状況を察した班長が後ろに向かって叫んだ。後方にいる人が車から飛び降りると、車のバランスがまた少し前に傾いた。私の足も地面に触れた。私はまた、力を込めて車の引き棒をぎゅっと握った。

出発した時は15人くらいの人が大車を動かしていたが、6人でこの大きな車を統制しなければならなくなった。もしここで車が急停車したり引っ繰り返ったら、私が死ぬ確率は90%以上だった。私はその瞬間からあれこれと頭をひねりながら走った。

この状況で、絶対的に不利な位置にいるのは引き棒の中にいた私だった。まず速度を抑えなければならなかった。引き棒を上に向けて車の後ろが地面につくようにしたかったが、私一人の力ではとてもできなかった。

私が超人的な力を発揮して、引き棒を上に上げたとしても、その衝撃の反動で車はすぐに前につんのめっただろう。もし引き棒を置いたら、木は確実に前に傾いて私の背中に突き刺さっただろう。

どうしようもなくなった。全力で走っているのに、前からは警備隊の哨兵が7~8人、勤務交代のために列になって歩いて来ていた。教化所の規定で、収監者は哨兵たちが歩哨交代をする時に出会ったら、哨兵に道を譲って、彼らが収監者を確認できるように後ろ向きになっていなければならなかった。私たちはその規定ができて以来初めて、車でその規定を押しやってしまった。

「やあ、お前ら! 後ろを向け!」

車の先頭にいた歩哨長が言い終わるか終わらないうちに、私たちの車は彼らの正面を突破してしまった。木を積み上げた車に、泣きそうな顔をしている私たち3人だけがくっついているのを見て、彼らも怖れたようだった。

車はそのまま監獄の垣根に沿って風のように走り、教化所の鉄門をくぐった。車は止まらず、目的地だった教化所の鉄門を過ぎて走り続けた。この速さならば10里下の遮断警戒所まで行ってしまいそうだった。

遮断警戒所まで行ってしまったら、担当保安員があらんかぎりの声を張りあげてきて、こん棒でめったうちにされるだろう。教化所の鉄門を過ぎたら、車にひかれて死ぬことよりも、保安員に悪態をつかれることの方が心配になってきた。その瞬間、教化所の垣根の下に建てられた温室の保護膜が目に入った。

傾斜は60度、長さは2mくらいの保護膜が教化所の垣根に沿って設置されていた。私がそっちに方向を向けると、班長と組長もすぐに私の意図を察した。一瞬、右側のタイヤがこう配に沿ってせり上がり、ぐらぐらと揺れていた大車が4~5m程動いた。

右側のタイヤが傾斜に沿って地面に触れるやいなや、車はその場で360度回転し、引き手の間にいた私は降り飛ばされてしまった。私は回転の力で温室の壁の方に飛ばされて、教化所の壁にぶつかってしまった。

ぶつかった左側の腰に痛みが走ったが、幸い大きなけがはなかった。私の右側にいた班長は温室の中に落ちて、左側にいた2組の組長は最後に引き手を置いて危機を凾黷ス。後ろにいた3人も負傷しなかった。

「やあ、死んだかと思ったぞ」

足の震えを押さえながら座っていたら、班長がぼんやりとした顔で声をかけてきた。通り過ぎる保安員たちも、何があったのかと私たちを眺めるだけで、何も言ってこなかった。車が襲った温室は温室とはいっても、実際には何も栽培しておらず放置されていた。

大車の引き棒は空を向いていて、後ろは完全に地面についていた。一足遅れて3組の組長やみんなが到着したので、車を立てて教化所の鉄門に向かった。

その時車が地面に倒れたり、止めることができずに遮断警戒所まで下っていたら、私は傾いてきた木に突かれて死んでいたか、重傷を負ったはずだ。車のタイヤにひかれて死んだ人、手や足が折れた人、車に積んだ木に突き刺さって死んだ人など、とにかくこの大車はたくさんの人を殺したり障害を負わせた。

そのためここの収監者たちは、大車のことを「恨みの大車」とも呼んでいた。このような原始的な道具で人が死んで行くにもかかわらず、教化所の保安員たちは「燃料が必要ない便利な運送手段」と考え、収監者を死に追いやっているのだ。 <続く>