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筆者はこの間、デイリーNKで’陽射しを越えて’という主題で太陽政策の問題点を指摘し、その代案について連載した。

その間、米朝間の2.13合意という事件があった。ハンナラ党からは既存の対北政策を大幅に修正するという発浮ェあった。ハンナラ党が対北政策を修正するという発浮?キるやいなや、ハンナラ党内の伝統的な保守勢力は、対北政策の修正の動きに対して反対の意志を表明した。

筆者はこうした状況を見守りつつ、ハンナラ党や韓国社会の保守勢力の対北政策は何であるのか考えるようになった。こうして悩む過程で、太陽政策反対の陣営でも、その代案においては確実に異なる2つの流れが共存していることを発見した。

その1つは李承晩や朴正煕初期の対北政策を引き継ぐ流れで、北朝鮮地域の収復、そしてその方法で北朝鮮の孤立、封鎖を主張する傾向だ。筆者はこれを’対北封鎖論’ または ‘封鎖論’と呼ぶ。

陽射し反対論にも2つの大きな流れ

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もう1つの流れは太陽政策と同様に、広くは包容論(engagement policy)の範囲にあるが、太陽政策は金正日政権に迎合しようとする消極的、融和的包容論で、原則のない妥協であると批判する立場だ。

この立場は’積極的包容論’と呼ぶ。’積極的包容論’は包容するが、金正日政権に迎合しようとするのではなく、北朝鮮の住民の意識を変化させて、可能であれば北朝鮮内部の力による金正日政権の交替までも排除しない立場だ。すなわち、太陽政策が消極的、防御的包容政策なら、この立場は積極的、攻勢的包容政策であるわけだ。

筆者が’陽射しを越えて’というシリーズで提示したのは、太陽政策を越えることであり、過去の封鎖論に向おうと主張したのではない。消極的包容政策から積極的包容政策に行こうと主張したのだ。

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元々、国際政治で封鎖論(containment policy)は一般的に自分の力量が相手の力量に劣る時に使われる戦略だ。反対に、包容論(engagement policy)は自分の力量が相手の力量に勝る時に展開する戦略だ。

第2次大戦以後、自由民主主義陣営は、当初は社会主義陣営の強化に対立して基本的に封鎖政策を広げた。トルーマンドクトリンが封鎖政策を集約的に見せてくれている。トルーマンドクトリンは東欧に続き、ギリシアとトルコさえ、ソ連の影響圏の下に入って行くかも知れないという判断の下、ギリシアとトルコに大量の経済、軍事支援を宣言したものだ。このトルーマンドクトリンが冷戦の始発点になった。以後、封鎖政策は朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て、一層強化された。

75年のヘルシンキ協定の基点、封鎖論から包容論に転換

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自由民主主義陣営の社会主義封鎖政策が、包容政策に移行した歴史的なきっかけは、75年のヘルシンキ協定だ。ヘルシンキ協定は韓国の太陽政策と異なり、積極的包容政策といえる。安保、経済問題だけではなく、社会主義圏の人権問題を正面から提議したからだ。

このヘルシンキ協定以後、東欧圏の民主勢力は急成長し始めた。成長したソ連や東欧の民主人権勢力が、まさに社会主義体制の崩壊と、ソ連、東欧の民主主義の主役になったのだ。

韓国でも李承晩、朴正煕政府は基本的に対北封鎖論に即していた。李承晩は北進統一を主張することはしたが、修辞にすぎず、北朝鮮の孤立、封鎖が主な戦略だった。朴正煕も7.4南北共同声明で、南北間のデタントを試みたが、基本戦略は北朝鮮の封鎖、北朝鮮に勝てる韓国経済の開発が優先だった。

全斗換政権は、韓国の対北政策が封鎖論から包容論に移る過渡期と思われる。全斗換政権は1982年2月に、既に雪岳山−金剛山の共同観光地域の開放を20の試験事業の一つとして、北に提議したことがある。また、1985年9月には、分断40年ぶりに離散家族の訪問を成功させ、全国を涙の海にした。

対北包容政策への本格的な転換は、盧泰愚政府の時からだ。盧泰愚政府は1989年9月に、朝鮮民族共同体統一方案を出すことにより、初めて統一の過程と統一後に対する青写真を提示し、1991年12月には‘南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書(南北基本合意書)’を採択することで、南北関係の発展の基礎を整えた。金泳三政府も基本的にこの基調を維持し、金日成との首脳会談を推進した。

したがって、私たちは盧泰愚、金泳三政府の政策は、対北封鎖論ではなく、対北包容論という広い観点から理解することができる。しかし、盧泰愚、金泳三政府の対北政策は、北朝鮮の改革、開放、人権改善、民主化という原則を確固としたものにすることはできなかった。 もちろん、北朝鮮を変化させなければならないという考えはあったが、北朝鮮の自由化、民主化をどのように達成するかということに関する正確なビジョンと戦略は不足していた。

このため、金大中政府が融和的包容政策である太陽政策に力強いドライブをかけると、いつのまにか国民は、盧泰愚、金泳三政府も冷戦時代の反共封鎖論の延長の上にあった流れとして考えてしまったのだ。

したがって、私たちが金大中、盧武鉉政府の太陽政策を乗り越えて、新しい代案を用意することは、断絶された盧泰愚、金泳三政府の対北政策の基調を21世紀の現実にふさわしく完成させる努力と思われる。

このためには、対北封鎖論がもたらす否定的な影響をよく理解する必要がある。それでこそ、太陽政策に対する批判が過去の封鎖論に回帰せずに、変化した現実にふさわしい対北政策が出せる。

実際に、1990年代以後の全世界的な情勢の変化と関連し、今は積極的包容政策が相対的に上策ならば、封鎖政策は相対的に下策と思われる。

またこの10年間、誤った宥和政策で仕方なく北朝鮮に核保有国の地位を与えるようになるかも知れない状況までもたらした太陽政策は、下之下策と評価するに値する。太陽政策の決定的な戦略的過ちは、金正日政権の本質を正確に把握することができず、’人権問題’を対北政策の’目的’ではない、’手段’に転落させたことである。結局、名分と実利をすべて失い、このためこの10年間の太陽政策は、封鎖政策以下の政策であることが判明した。

したがって、これから筆者は ▲金正日政権と北朝鮮の住民を区別しない問題 ▲北進統一という思考の問題 ▲中国の北朝鮮合併説  ▲北朝鮮の人権運動の具体的な各論不足現象など、’対北封鎖論’の主な問題点を考察し、その代案を提示しようと思う。