人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

1989年7月12日。平壌で開かれた第13回世界青年学生祝典が終わり、北朝鮮と本格的に事業について話し合うために、咸鏡北道羅津市にある船舶造船所を訪問した。船舶造船所がある埠頭の事情を知るために現場踏査に行った時のことだった。

1989年4月に訪朝した時、デャ淘豪ヌが東海岸の港に排水トン数約5千トン規模の船舶修理工作所が必要だと提案してきた。

毎年11月になると、咸鏡北道北方のロシアの海岸はひどい寒さのため、すべての船舶が操業を中断しなければならない。この期間を利用して船舶を修理すれば、大きな収益をおさめることができると判断した。

現地は酷寒で、船舶修理ができる条件は整っていないため、マカオやシンガポールまで遠征して修理していた。この船舶を対象に、真冬でも修理できる船舶修理工作所を羅津-先鋒や清津、元山に建設すれば、事業ができるという意見だった。

デャ淘豪ヌ第3総局(第3商社)の社長キム・ホマンと指導員のリ・ソンhン、さらにもう1人のガイドと一緒に、朝10時に出発して羅津行きの特急列車の寝台室に入った。列車の案内員が「米州同胞のキム・チャンク先生、こんにちは」と、筆者のことを喜んでくれた。旅行者の身元をもう全て把握していた。このように厳しく監視されていては、スパイもなかなか出て来られないだろうという気がした。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

デャ淘豪ヌ側とは今日出張する約束をしておいたので、旅行証と汽車の切符はあらかじめ準備してあった。私たちの座席は寝台室だった。だが、列車があまりに激しく搖れるので、まるで船に乗っているように体が左右にひどく揺れた。


日帝時代の鉄道をそのまま利用しているため揺れも大きかった


日帝の時の鉄道施設なので、きちんと補修ができていなくてひどく搖れるのだと案内員が教えてくれた。寝台室1室の定員が4人だったので、我々一行の人数はちょうどだった。一晩中、あれこれと事業の話やアメリカの話をしながら、お酒も1杯ずつ注いですぐに親しくなった。何よりも言葉が通じるので、すぐに親しくなれたようだった。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

咸興を過ぎてホンウォンという駅にしばらく停車した。独立運動をしたという金日成の叔父、キム・ヒョンクォンが日帝の時期にホンウォンにいた友人の家に身を潜めていたが、その友人が告発して捕まったことがあったそうだ。それも話の種ということで、熱をあげて話していた。ビールを飲んで焼酒も飲んだためか、交替でトイレを使わなければならなかった。

89年7月13日06時頃に羅津駅に到着したら、水産事業所から日本の日産の中古車で迎えに来ていた。運転席が反対側についているので慣れずに妙な気がした。筆者のことをひどく喜んでくれている。

デャ淘豪ヌ羅津水産事業所の招待所に荷物を置いて、10時頃に朝鮮事業所を訪問した。港湾施設や造船所を見学して、季節ごとの風向きや気象条件など基礎的なことを調査して、修理工作所が必要だと感じた。ちょうど2,000トン級のロシアの貨物運搬船1隻を修理しているところだったが、船体の修理に必要な機械設備は鍛冶屋レベルだった。機関の修理施設の装備と工具で不足しているものも多かった。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

事業所の実務者と事業計画を立てたところ、陸上の施設は時間と資金があまりにも多く必要になるため、移動式浮力を利用した「フローティングドック(Floating Dock)」を施設するのが効果的と思われたので、その事業計画を立ててから、再度相談することにした。相談を終えた後、デャ淘豪ヌ東海事業所長が昼食に招待してくれたので、海辺の斜面にある景色がきれいな場所に向かった。

筆者が来たことを口実にして、よく遊びよく食べる人達

筆者1人のために20人余りの職員が動員されて、大きな宴会を準備している。たこやサザエなどの魚介類を生きたまま料理して、小型蒸気船が食べ物を休むことなく運んできた。雰囲気から、筆者を口実にして、みながひとしきり遊んで食べようとしているようだった。酒はオガピからビールまで動員された。1杯ずつ飲んで歌も歌ってダンスもして、楽しく遊んだ。酒に酔ってその場で居眠りしている人もいた。みんなほろよい機嫌でよく遊んでいた。

夜には私が、昼間労をいとわず働いてくださった方々とその家族を招待した。案内員に200 ドル渡して、料理が不足しないようにしっかり準備するようにと言っておいた。その後宿所に戻ってひと眠りした。

案内員が私を起こした。夕食の時間だと言った。水産事業所の事務室に、机を付けていろいろな魚を並べてよく準備してあった。よく見たら、昼食と同様お酒と一緒に料理が並んでいた。タバコや飴まで用意してあって、職員の奥さんたちも同伴だった。   

ご夫人たちは何かの行事に出る時のように、きれいな韓服を着ていた。食卓には魚とお酒、タバコしかない。果物や野菜は全くない。さかずきを回してにぎやかになってきた。盛り上がって歌と踊りが始まり、騒ぎながら同族の愛情を互いに感じることができた。だが問題は、私に休む間もなくさかずきが回ってくるということだった。筆者はさかずきを断れなかったので、渡されたらそのまま受け取って飲んでいた。そのため飲みすぎてしまい、ぼんやりとしてきた。

案内員に小声で話した。私を宿に連れて行ってほしいと言った。お酒を飲みすぎて、とても耐えられなかった。「首領様は私たちと永遠に共におられる」「革命の首脳部を決死擁護しよう」が響く中、筆者は宿所に戻って来た。