元プロ野球選手の清原和博被告が5月31日、覚せい剤取締法違反で懲役2年6月、執行猶予4年の有罪判決を受けた。世間の関心が、同被告の覚せい剤の「入手ルート」に集まる中、2日には那覇港に停泊中のマレーシア船籍のヨットから覚せい剤約600キロが押収された事件で、ヨットに乗っていた台湾人乗員6人が覚せい剤取締法違反(営利目的輸入未遂)の疑いで再逮捕された。

押収された覚せい剤の末端価格は400億円以上とみられ、一度に押収される量では国内最大級だ。

「運び屋」の現場

一昔前には、覚せい剤と言えば北朝鮮製が幅を利かせていた。果たして、現代の覚せい剤の流通経路はどのように変遷してきたのか。ジャーナリストの李策氏が、北朝鮮を起点にその歴史を辿る。

私が北朝鮮製の覚せい剤と初めて対面したのは、2005年3月、中国・延辺朝鮮族自治州でのことである。

現場は、中朝国境を流れる豆満江(トゥマンガン)の川岸だった。

狭い川幅と浅い水深、冬には凍結した川面の上を歩いて渡れる豆満江だが、3月中旬ともなるとすでに氷が解け始めている。その中を、腰上まであるゴム製の防水ズボンをはいた北朝鮮の運び屋が、ブツを入れたビニール袋を手に、氷をザクザクとかき分けながら渡ってきた――。

北朝鮮側から持ち込まれたのは、北朝鮮で「オルム(氷)」と呼ばれる覚醒剤の一種。量はおよそ100グラムで、値段は3万5千元(当時のレートで4千230米ドル)ということだった。オルムは、その名の通り氷砂糖によく似た半透明の結晶の粒で、中国で密売される際には「氷毒(ピンドゥ)」と呼ばれる。アルミ箔の上で炙って気化させたものを、水パイプを通して吸引するのが一般的だ。

国家の財源

協力者のブローカーによれば、取引の仕組みは次のようなものだ。

「ブツを抱えて川を渡ってくるのは運び屋で、商談をまとめる密輸業者は別にいる。業者は、北朝鮮政府が発行した旅券を持って、正規のルートで中国に入国。商談がまとまると国内に連絡をとり、運び屋を雇って取引が行われるんだ。クスリの製造元は、北朝鮮国家に他ならない。業者も色々で、中には当局の高官に鼻薬を嗅がせてブツを確保している者もいる。いわゆる横流し品だ」

これまで日本では、北朝鮮の覚せい剤製造・密輸は国家的な事業として行われており、その犯罪収益は国家の財源となっていると信じられてきた。

本質的には、そう考えて間違いなかろう。日本の領海内へ大量の覚せい剤を運び、巡視船と死闘を繰り広げたあげく爆沈した工作船の壮絶な最後が、何よりもそれを物語っている。

覚せい剤の「生命力」

あれは、あの船に乗り組んでいた兵士たちの、国家への忠誠心の発露以外の何ものでもない。

しかしその一方で、覚せい剤の横流しが製造・密輸に関わる役人たちの利権になり、食い詰めた国民が、イチかバチかで運び屋を買って出る実態が確かにあるのだ。中朝国境でのたった100グラムの覚せい剤の密輸が、工作船のミッションと同種のものであるようには到底見えなかった。

中朝国境での取材経験を踏まえると、北朝鮮において覚せい剤というモノは、「国策」と「利権」のふたつの顔を持っているように思えるのである。

筆者がなぜこの見方にこだわるかと言えば、そこにこそこの薬物の「生命力」があると考えるからだ。

70年代には韓国から

そうしたイメージを持つようになったのは、新宿・歌舞伎町で北朝鮮製の覚せい剤を追う中で、ある外事捜査員からこんな話を聞いたのがきっかけだった。

「日本への覚醒剤密輸ルートは、1970年代は主に韓国から、80年代は台湾、90年代には中国に移った。その次が北朝鮮だ。因果関係は分らないが、民主化や経済開放の推移と連動しているみたいだ」

周知の通り、覚せい剤は戦前の日本において、抑うつ症状やナルコレプシー(突発的で強い眠気の発作を主な症状とする脳疾患)の治療薬として市販されていた。そして戦中には、兵士の士気高揚や軍需工場労働者の作業能率の向上を目的に大量生産される。

敗戦後、軍部保有の覚せい剤が市場に放出され、「第1次覚せい剤乱用期」が始まった。放出品が底をつくと公然と工場生産されるが、1951年に「覚せい剤取締法」が施行されると、国内の生産拠点は一掃されていく。

戒厳令の時代

そして覚せい剤の仕出し地は韓国―台湾―中国と移り変わるわけだが、それぞれの時代背景を比較してみると、共通点のあることが分かる。

まず、韓国で34年間続いた夜間外出禁止令が解除されたのが、1982年1月。次に台湾で40年間に及んだ戒厳令が解かれたのは、1987年7月である。そして中国政府は、学生たちの民主化運動が高まった1989年5月、北京市の一部に戒厳令を布告。6月の天安門事件を武力鎮圧し、翌年1月に戒厳令を解除した。

日本への密輸ルートはいずれも、体制の権威主義性格が強い時期に開かれ、それが緩むとともに、次の国へと移っているのだ。覚せい剤が、日本の軍国主義の下で国策的に利用されていた経緯を考えると、無視できない符合である。

覚せい剤の供給源は、1969年頃までは国内での密造が中心だったが、それ以後は海外からの密輸に切り替わる。当初、最大の供給源となったのは韓国で、年間の水際押収量の70~80%を占めていた。

大阪の「技術者」

それにもかかわらず、韓国社会では長らく、覚せい剤の問題に人々の関心が向くことはなかった。なぜか。

その最大の理由は、韓国国内では覚せい剤の乱用実態がほとんど認められなかったからだ。

日韓の覚せい剤密輸ルート、いわゆる「コリアン・コネクション」を追った『恐怖の覚せい剤―西日本からの報告』(NHK取材班・日本放送出版協会)によれば、韓国に覚せい剤の密造技術を持ち込んだのは、大阪にいた在日韓国人であるとの説が有力だという。製薬の町・大阪の道修町で働いていた韓国人技術者が戦後失業し、故国へ帰ってから覚せい剤の密造を始めたというのだ。

日本では1970年代から80年代にかけて、多数の在日韓国人が覚せい剤密輸の罪で摘発されている。そうした事実から見て、コリアン・コネクションの誕生に在日韓国人が深く関与していたのはまず間違いない。

ヤクザの役割

しかしその経緯は、「食い詰めた失業技術者が故国へ持ち帰った」という単純なものではなかったように思える。

前述したとおり、日本において「覚せい剤取締法」による規制が敷かれたのは1951年頃のことだ。それまで、覚せい剤は日本国内でおおっぴらに製造されていたのだから、何も技術を韓国へ持ち帰る必要はなかった。

それに朝鮮半島は1950年から53年まで朝鮮戦争のただ中にあり、その後も戦禍による荒廃から容易に抜け出せなかった。いくら食い詰めていても、失業した在日韓国人が望みを託すことのできる地ではなかったのである。

また、日韓が国交を結んだのは1965年のことだ。両国間でヒトとモノの往来が活発になるのもそれからである。覚せい剤の密輸は、そこに紛れる形で増大しているのだ。

 

そして、コリアン・コネクションの誕生を語る上では、日本の暴力団の役割を無視することはできない。

韓国での覚せい剤密造の背後に日本の暴力団があることを初めて赤裸々に暴いたのは、「プリキップンナム(根の深い樹)」という月刊誌の1980年6月号に掲載された、趙甲済のレポートだと言われる。

今では保守言論界の大御所となっている趙も、当時は反権力ジャーナリズムの旗手だった。メディアが軍事政権の検閲下にあった当時の韓国において、治安の機微に触れる問題に切り込むには、さぞや勇気を求められたことだろう。

彼のレポート「ついにこの地にもヒロポンが浸透する」から、一部を抜粋要約して紹介する。

旧日本軍の系譜

〈1968年4月、ソウル地方検察庁・麻薬取締班は、釜山○○製薬会社の代表・柳哲煥をふくむ5名をヒロポン密造の嫌疑で逮捕した。これが韓国で初めて起きたいわゆるヒロポン事件だった。

彼らは鄭康泰からヒロポン製造技術を学び、3年間にわたって密造を続けたと自白した。在日同胞の鄭は5年後の1973年6月28日、釜山地方検察庁・麻薬事犯専従班に逮捕された。かれは、日本最大の組織暴力団である山口組の指令を受けて韓国に渡ったと自白した。

鄭が韓国に渡ってきたのは1964年2月だった。彼は許された滞留期間が一ヶ月である母国訪問旅券を持参していたが、旅券期間が切れると永住帰国を建前に韓国に居座り続けた。彼は原料と資金を山口組から受け、その間、覚せい剤100キロを密造し、密輸出したとのことだった。〉

コリアン・コネクションは、日韓関係の親密化という時代背景に暴力団の勢力伸長が重なり、在日韓国人が水先案内人を果たすことで生まれたのだ。

韓国情報機関との癒着

ただ、日本の暴力団が軍事政権下の韓国で大胆に行動できたのは、単に在日韓国人の構成員を多数抱えていたからではない。日韓の闇社会を結ぶ地下茎は、実は旧日本軍にそのルーツがある。

戦後日本の諜報活動を知り尽くした公安OBが言う。

「戦後、日韓が接近したのは日本陸士出身の朴正熙大統領が誕生してからで、彼とともに維新クーデターを起こした同志の多くは旧日本軍関係者でした。朴政権を支えた韓国中央情報部(KCIA)の諜報・謀略ノウハウも日本式です。

たとえば、1973年の『金大中事件』を指揮した李哲熙次長補は、日本の陸軍中野学校出身です。金大中氏を拉致した方法はまさに陸軍中野学校で教えていたものであり、事件に協力したとされる日本人も、やはり中野学校グループの人間です」

目をつぶる機関員

前掲の趙甲済のレポートには、覚せい剤密造組織と韓国情報機関との癒着をうかがわせる記述がある。

〈大きなヒロポン事件には奇妙なウワサがあとを絶たない。釜山にある日本総領事館では日本警察当局から非常に微妙な依頼を受け、頭を痛めていたことがあった。日本の警察に捕まった日本のヒロポン密輸業者が「韓国のある空港に出ている機関員が、目をつぶってくれるおかげで、厳しい検査を受けずにヒロポンを持ち込めた」と自供したからである。調べてみたところその機関員は実在の人物で、彼がヒロポン密輸出を黙認したのが事実なのか事実でないのかについては、日本の警察当局からの確認催促にもかかわらず総領事館の立場では明らかにするすべがない〉(傍点は筆者)

ここで言われている機関員こそ、KCIAの要員に他ならない。KCIAは単なる情報機関ではなく、国民の思想・動向を監視する秘密警察として絶大な権力を振るってもいた。

KCIAが組織的に覚せい剤密造を庇護、あるいは奨励していたとは思えないが、日本の暴力団との縁故関係からもたらされた利権として、甘い汁を吸う要員が少なくなかったのだろう。

猛烈な異臭

しかし1980年代に入ると、韓国当局の姿勢にも顕著な変化が現れる。

1982年7月、日韓の関係当局はソウルにおいて、「麻薬及び覚せい剤(アンフェタミン類)問題に関する連絡会議」を初めて開催。この前後から韓国当局は覚せい剤密造拠点の摘発に力を入れ始め、コリアン・コネクションは一掃されていく。

そもそも、ある工程で猛烈な異臭が発生するなど、密造が露見しやすい覚せい剤を継続的に生産するには、権力の庇護もしくはお目こぼしが必要条件になる。

汚職で腐敗した権威主義体制下であるほどやり易くなるわけだが、当局の態度が一変すれば、根絶もされやすい。

台湾に移行

韓国ではまさにこの時期、朴正熙大統領の暗殺と全斗煥大統領の登場にともなうパワーシフトが起きていた。1979年10月に朴正熙が腹心の金載圭KCIA部長によって殺されると、全斗煥少将の率いていた軍の保安司令部が秘密警察の地位を占めるようになり、KCIAは事実上「粛清」の憂き目に遭うのだ。

もっとも、汚職体質や権威主義のひどさで言うなら、両政権とも五十歩百歩だった。ただ、1980年の光州事件で民主化を求める学生らを虐殺し、クーデターで権力を握った全斗煥は海外からの凄まじい批判にさらされていた。体制の正当性確立を迫られ、とりわけ日本との経済関係強化を国策として掲げていた全斗煥政権が、前政権の遺物である「覚せい剤利権」を放置するはずもなかった。

韓国情報機関と在日ヤクザの関係も微妙に変化していく。韓国国内の民主化の進展によって、軍事政権時代のつながりが「負の遺産」とみなされるようになったのだ。

大蔵省(現財務省)の関税局監視課が1991年にまとめた「麻薬・覚せい剤等不正薬物(「白い粉」)の密輸入事犯の動向」によると、日本に持ち込まれ、押収された覚せい剤の量は、1986年に台湾からのものが韓国を抜き、トップに躍り出ている。

民主化で根絶を

その後も1989年を除いて台湾からのものが大半を占めており、覚せい剤密輸の主要ルートは韓国から台湾へ移行する形となった。

ここで当時の台湾の政情について詳しく分析する余裕はないが、有力な覚せい剤密造組織である「高雄グループ」が、警察関係者によって牛耳られていた事実は示唆的と言える。

かつての日本において、軍事利用という「国策」から享楽追求の道具に転じた覚せい剤の密造拠点は、暴力団と結託した情報機関要員らの「利権」として韓国に引き取られた。それがこんどは、対日接近という「国策」を選択した新政権によって否定されるや、「利権」を許容する権威主義を求めて台湾へと居場所を変えたのだ。

このように見てくると、後の北朝鮮ルートの台頭は、あまりにも当然の帰結のように思えてくる。

ここ数年、監視の厳格化によって、北朝鮮ルートの機能は停止しているとの見方があるが、覚せい剤製造の温床となるあの国の体質は、何も変わっていない。韓国の例にならうなら、真の意味での日朝関係の改善と北朝鮮の民主化以外、北朝鮮ルートを根絶やしにする方法は存在しないのである。

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