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労働党大会は、原則的に5年に1度、開催しなければならないが、金日成主席時代に開催された第6回大会以後、北朝鮮経済が悪化したことにより、開催できなくなった。

94年に、金日成の急逝によって最高指導者となった金正日は、経済崩壊という非常事態を乗り切るため「先軍政治」を掲げ「党」よりも「軍」を重視。労働党の役割と存在意義は極端に低下し、具体的な成果もなく党大会を開くことができなかった。また、国防委員会を中心とした政策決定をしていたため、党大会を開催する必然性もなかった。

 しかし、先軍政治や国防委員会中心の国家運営は、軍部の肥大化と経済停滞という副作用を生み出し、晩年の金正日氏は、党への権力移行を目論んでいたようだ。息子・金正恩氏に軍部をコントロールするのは難しいと判断したのだろう。しかし、2011年に死去。

 後を継いだ金正恩体制では、事実上のナンバー2だった叔父・張成沢氏が、軍から党への権力移行を進めたが、その過程で党・軍からも恨みを買い、さらに張成沢氏に権力が集中することを恐れた金正恩氏によって粛清・処刑に追い込まれる。それを皮切りに、正恩氏は、軍の高幹部などを次々と処刑して、絶対的権力を構築しようとしている。

(参考記事:金正恩氏は「人道に対する罪」で破滅の瀬戸際にある

 既に、金正恩氏に物を言える人物は皆無と言っていい。