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去年金正日の健康が悪化した後、後継者作業が本格化している。金正日の三男金正雲の偶像化作業を各界、各層で行っており、金正雲も内部で主要な要職について後継者授業を受けているという。

だが専門家たちは、金正雲はまだ若く経験が浅いため、後継者として位置づけるには困難が多いだろうと予想している。長年にわたり金日成という光背を背負って後継者授業を受け、労働党の要職について経験を積んだ後、後継者になった金正日と比べると、3代世襲が成功する可能性は低いということである。

例えば、金正雲が後継者になる過程で致命的な過ちを犯し、北朝鮮の指導部が「金正雲の能力」に不信を抱いたり、金正男や張成沢など主要な核心勢力から陰湿な攻撃を受けて、妨害工作などで困難な状況に陥る可能性もある。金正日がそれを目撃すれば、金正日としては息子である正雲の能力が不足していたために生じたことであっても、3代世襲を妨害する勢力を粛清せざるを得ないだろう。

北朝鮮の金日成と金正日の2代にわたる世襲の過程は、まさに粛清の歴史と言っても過言ではない。金日成と金正日は自身の権力の基盤を固めるために、権力に目がくらむ勢力は、いかなる理由も受け入れず無残に粛清してきた。特に金正日は、自分の養母であり、金日成の2人目の夫人だったキム・ソンGと、60、70年代に最強の権力を享受した叔父のキム・ヨンジュも、容赦なく枝をはらうように突き放した。もちろんキム・ソンGとキム・ヨンジュは金日成がいたため、それでも命だけは取られずにすんだ。

金日成も自身の唯一支配体制を固めるまで、多くの政敵を粛清した。53年にパク・ホニョンを含めた南労働系の核心人物を粛清して、その後ソ連派やヨナン派、カプサン派などの勢力を一斉に粛清して権力基盤を固めた。

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特に先月の30日は、1956年に北朝鮮で8月宗派事件が発生した日だった。この半世紀の間で北朝鮮における最大の粛清事件だったと評価されている8月宗派事件によって、解放後に連合国「が作られていた北朝鮮の権力層の基盤が崩壊し、金日成とその支持派だけの唯一独裁が始まったと言われている。

「8月宗派事件」は、1956年8月に起きた、金日成政権出帆以後最大の反金日成権力闘争事件と記録されている。8月宗派事件はヨナン派(中国と近い勢力)とソ連派(ソ連と連携していた勢力)が連携して、金日成に対抗した事件だった。

当時北朝鮮の権力層が分裂した主な原因は、戦後の復旧をめぐる葛藤の産物とも言える、金日成が提示した「重工業を優先的に発展させ、軽工業と農業を並行して発展させることに対する政策路線」にあり、その対立の中で深刻な争いが起こった。

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抗日闘争の時期から、中国共産党の指導部と長年にわたり関係を結んできたヨナン派は、金日成の重工業優先路線が、当時北朝鮮が直面していた内部の条件や環境にそぐわないと反対し、金日成の権威に挑戦した。この人たちの主張は、人民の生活をまず発展させて、戦争で全て失って追い出された人民の生活をできるだけ早く安定させようというものだった。

だが金日成の経済政策路線に対する彼らの批判が受け入れられず、次第に権力争奪が企まれるようになり、それにソ連派が加勢して、北朝鮮の権力層に権力闘争の嵐が吹き荒れた。

1956年6月1日から7月19日まで、金日成は政府代表団を率いて旧ソ連や東ヨーロッパの旧社会主義国を巡回した。反金日成勢力は、そのすきをついて組織的に金日成を権力の座から追い出す計画を立てた。

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当時副首相兼財務相だったチェ・チャンイクを中心に、北朝鮮職業同盟(職業総同盟)の委員長だったソ・フィや商業相のユン・ゴンフム、黄海南道の党委員長だったコ・ボンギなどヨナン派と、党中央委員会の書記パク・チャンオク、建設相のキム・スンファ、副首相兼国家建設委員長のパク・イワンなどソ連派が手を握った。さらに、建制工業局長だったリ・ピルギュと南労党出身の石炭工業相リュ・チュグン、収買糧政相のオ・ギソプなど国内派まで加わり、広範囲にわたる反金日成連合戦線が組職された。

反金日成勢力である2つのグループ、つまりヨナン派とソ連派は、それぞれ異なるやり方で準備をしていた。1つ目のグループは当時、第4軍団の司令官で内務副相だったリ・ピルギュを中心に、権力交代の手段として、党内の批判と軍事クーデターという2つのやり方を計画していた。もう1つのグループは、ソ連派を中心に党内を批判したグループで、より穏健な形の党内批判とソ連の協助に頼ろうとしていた。

このように、互いに異なる2つの反金日成勢力が、1956年8月の全員会議で、党内批判を通じて金日成を追い出す計画を立て、リ・ピルギュは平壌近郊に駐屯している第4軍団と市内の防空砲隊、工兵部隊などと連携して武力デモを展開する計画を立てた。

だがこうした反金日成計画は、実行に移される前に金日成とその支持派の知るところとなり、これを受けて内閣や党、軍部など北朝鮮内で当時、金日成に反対していた勢力が宗派として完全に除去された、8月宗派事件が起きたのだった。

金日成は海外にいたが、反政府勢力の動きに関する報告を、当時首相代理だったチェ・ヨンゴンから受けてすぐに北朝鮮に戻り、8月2日に開かれることになっていた全員会議を延期し、反対派を除去する対策を立てた。

8月30日、金日成は全員会議を召集した。会議の案件は2つあった。金日成が団長を務めた政府代表団の外国訪問の報告と、人民保健事業の改善・強化のための問題について議論することになっていた。金日成の報告が終わるとユン・ゴンフムが先に立ち上がり、議題とは関係のない重工業優先路線と金日成の個人崇拝及び、党内での独裁行為に対して批判し始めた。

それを見ていた金日成支持派たちがユン・ゴンフムの発言を制止させたが、ソ・フィやチェ・チャンイクなどが立ち上がり、ユン・ゴンフムの立場を支持する討論を始めた。だが、党組織部長だったキム・グムチョルや党宣伝扇動部のキム・ドマン副部長など金日成支持派も立ち上がって、それは宗派的な行為だと責め立てた。

連携を約束したソ連派は状況が不利になったと見るや沈黙を守り、ヨナン派は反党反革命分子の烙印を押された。

結局、ユン・ゴンフムとソ・フィ、リ・ピルギュは党を追われて、チェ・チャンイクとパク・チャンオクは党に解雇され、政府の職位も剥奪された。ソ連派は全員会議では直接発言しなかったが、反金日成勢力の動きを知りながら何も言わなかったという罪名を着せられて、全員除去された。

ユン・ゴンフムやソ・フィ、リ・ピルギュ、キム・ガンなどは鴨緑江を渡って中国に亡命したが、彼らと少しでも関係があった人は全員調べられて、宗派の加担者という烙印を押された。宗派分子の粛清の中で、気にさわる人物も全て取り除かれた。当時、この8月宗派の粛清で、彼らと少しでも連携していたり何らかの疑いをかけられた人たちは、理由も分からないまま宗派として責められ、党を追われて職も奪われ、追放された。(続く)