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1953年に朝鮮戦争が休戦となり、北朝鮮は韓国との体制間競争としての戦後復興に取り組むが、フルシチョフによるスターリン批判(1956年)、中ソ対立(1960年代~)、キューバ危機(1962年)、韓国のベトナム参戦(1964年)、日韓条約締結(1965年)など国際情勢の激動にもまれ続けた。

金日成氏はこうした危機に、政敵の粛清と唯一思想体系の確立で対応。1956年のいわゆる「8月宗派事件」において国内のソ連派と延安派をまず排除し、自らを中心とする抗日パルチザン派による支配を固めていった。

粛清は、金正日氏の時代になっても続く。有名なのが、朝鮮人民軍のソ連留学組が標的となったフルンゼ軍事大学事件だ。また、金一族の政敵とは言えない、悪政に批判の声を上げただけの国民たちも数多くが虐殺された。

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こうした歴史のために、金正恩体制が国連において、国家的な人権侵害に対する厳しい追及を受けているのは周知のとおりだ。彼としては、祖父と父から「負の遺産」を背負わされた側面もあった。それも、現在では違う。