1988年の下半期にアメリカの韓人僑胞の北朝鮮観光の道が開かれてから、それまで息も大きく吸えなかった、いわゆる親北性向の僑胞たちが大手を振るようになった。彼らは見よといわんばかりに、大っぴらに活発に動き始めた。

彼らが大韓民国に背を向けた動機はさまざまだ。韓国という国が嫌で祖国に背を向けて海外に旅立ったというよりも、個人的な意見の衝突や権力闘争で排除された為政者たちが多かった。韓国で不正腐敗の張本人として自分の意思半分、他人の意思半分で韓国を離れなければならない立場に陥った、金持ちの高官伯爵たちも相当数いた。

北朝鮮を理解する性向を見せたり、個人的な事情でこっそりと北朝鮮に行って来た事実がある人たちもいた。時には、本人も知らない間に親北派の烙印を押されたり、韓国国籍であるにもかかわらず、言行や思想が社会主義に傾いている僑胞たちはみな例外なしに、韓国への母国訪問の道を閉ざされてしまった。

韓国政府はブラックリストのようなものを作り、入国を統制した。それだけではなく、彼らの父母兄弟がこの世を去っても、弔問のために訪問することもできないように阻んだ。このような人たちを総称して、通常、親北系と表現した。

こうした人たちは北朝鮮が対外宣伝用の人物として選定したおかげで、北朝鮮に比較的自由に行き来することができる階層と、北朝鮮政府の認定を受けていても、簡単に北朝鮮を訪問することができない人に分かれた。何の目的があるのかは分からないが、北朝鮮政府に認定してもらうために、陰日なたで一生懸命努力する姿を見せる人もいた。

対北窓口を独占しようと競い合った東西の親北系

日本の朝鮮総連のような組織はないが、北朝鮮と独自の関係を維持しながら認定を受ける人もおり、韓国に背を向けて北を訪問して、晩年に絶望的な人生を送った人もいる。特に、朝鮮戦争の時に北から非難して来たり、アメリカに移民した牧師たちの中には、理由は分からないが、親北系に分類されたため韓国に入ることができなかった人もいる。

こうした僑胞たちが住んでいる地域は、大きく東部地域(ニューヨーク、ワシントンDC)と西部地域(カルフォルニア、サンフランシスコ、ロサンゼルス)に分けることができる。親北系は2つの地域に分かれて、互いに自分の方が優れていると言って平壌を頻繁に訪問していた。北朝鮮に一番忠誠(?)を尽くしているかのように振舞い、相手の地域を中傷して、北朝鮮当局が自分たちの方だけを訪問してくれるように頼むこともあった。

こうした有様なので、東部地域の人が平壌を訪問して自分たちが正当だと言えば、「そうですか、あなたたちが本物だ」と言ってくれ、西部地域の人が訪問して「私たちが唯一、祖国(北朝鮮)を愛し忠誠を尽くしているので、窓口を西部地域に一元化してほしい」と交渉すると、北朝鮮当局は「そうだ」と言ってくれるのであった。どのような約束をしてくるのか分からなくても、アメリカに帰って来たら互いに、自分たちが唯一の対北窓口であるかのように宣伝して行動していた。

このような忠誠競争と窓口の一元化の競争が繰り広げられ、北朝鮮訪問は次第にやかましくなってきた。訪朝を望む人たちも、最初は性向とは関係なくさほど問題はなかった。しかし歳月がたつにつれて、地域ごとに受け付けをするようになり、地域の責任者の推薦を受けて特別な会費を払わなければ、訪朝の道が閉ざされることもあった。

親北系が内部で何か利権争いでもしているかのように競争して人を集め、訪朝の斡旋をして、事業のために自由に訪朝しようとした人たちも、お金を出した場合に限って推薦していた。こうした事態になり、事業で訪朝しようとしていた人たちは不便さを越えて悲痛な思いまでするようになった。

親北系が平壌に不満を吐露して入国妨害

彼らの行動がみっともなく思われたので、私は相手にもしたくなかった。筆者は親北系とは関係なく、個人的に北朝鮮を自由に出入りしていたが、彼らが北朝鮮当局に私に対する不満を述べた。そうしたことがあった後、平壌が直接私に忠告してきた。

「チャンク先生、次に来るときは必ずどこの誰に推薦してもらって、手続きをしてから平壌に来るようにしてください!」

「わかった」と返事はしたが、心の中では生意気だなと思っていた。

「私がなぜ?どうしてあの人たちにお金をあげて、平壌を訪問しないといけないのか?とんでもないことを言うな」

当時、筆者はだいたいふた月に1回ずつ訪朝していた。遠いアメリカから行くのは不便で、ソウルから北京を経由して平壌に直接行っていた。そうしたある日、平壌に行こうとして連絡をしたが、アメリカの誰それに連絡して、そこの推薦を受けてから平壌に来るようにという連絡があった。

あきれかえってしまい、長文のファックスを送った。

「私はアメリカに行かずに、香港から直接平壌に行って事業をするのに、なぜアメリカの誰かに連絡をして推薦をもらって来いというのか?私がなぜ?その人に頭を下げて頼みこまなくてはならないのか?その人は共和国の代弁人なのか?その人じゃなかったら、私は平壌に行けないということなのか?天下のキム・チャンクがアメリカの誰かにお願いして平壌に行かなくてはならないのであれば、私はあきらめる。どうしても理解ができない。私をその人たちと一緒に扱わないでいただきたい。香港からアメリカに連絡して、お金と書類を送ってあちら側が訪朝の手続きをした後、あちらの指示通りに行動しろというのならば、時間もかかるし自由に動くこともできない。平壌がそのように言う理由は分かるが、私の場合は違うからビザをくれるならくれるで、あげるのが嫌ならそれでかまわない。どのような行動が正しいのか、判断していただきたい」

平壌からは今回1度だけ、あちら側の体面を保つのがよいという連絡がきた。

「だとすれば、私の人格と体面は地に落ちてもよいのか?その人の体面だけが重要なのか?私にはそのようなことはできない!私とあの人たちを同じように見るな!」という返事を送った。

北朝鮮をバックに金稼ぎの知恵を絞る親北系

あの親北系たちは北朝鮮をバックに、こうして金稼ぎをする知恵を絞っているのかと思った。観光客を募集し、何か特権を持っているかのように権勢を振るって横魔ネふるまいをする。まるで、親北系が訪朝の推薦をしなければ北朝鮮に行くことができないかのように大口をたたいていた。これより恥ずかしいことも多かったが、さまざまな理由から省略する。

結局訪朝が遅れて、工場に持って行くことになっていた付属品と資材が遅れたため、工場にも大きな支障が出た。香港から、ニューヨークの国連駐在ハン・サンヨル次席大使に直接電話をかけた。話をしてそれでも十分でなかったため、ファックスまで送った。3日後にまた電話することになった。

3日後にニューヨークに電話をすると、「平壌の外交部に直接電話をかけてそれについて詳しく連絡したので、少しも心配せずに計画通り北京大使館に行ってビザをもらって行くようにしてください」という返事が来た。「祖国の発展のために事業をしてほしい」とまで頼まれて、「これからもそのようなことがあれば、いつでも私に電話をしてください」とも言われた。

本当にありがたかった。アメリカの親北系の小心者たちが、自分たち以外は北朝鮮に行くことができないと考えていてひどい目に遭いそうになった。傲慢そうに彼らに駆け寄る人たちの上に私がいることを見せてやった。

あの人たちは、口だけは祖国のために海外から努力すると言っているが、実際に何をしたと分かるものはひとつもなかった。小さな事業ひとつ投資したことがない。せいぜい、韓国の大統領がアメリカやカナダを旅行する時に、血を象徴する赤い文字で「逆賊!殺してしまえ!」と書いて叫びながら、通り過ぎる車に卵を投げつけて道路を防いでデモをちょっとやったり、写真を撮って北朝鮮に送るくらいだった。

それでも何か大きなことをしたかのように北朝鮮に知らせたりしていたが、そうしたこと以外には北朝鮮のためになることをしたことは全くなかった。それなのに、海外同胞が頻繁に北朝鮮に出入りするようになると、自分たちには大きな権勢があるかのようにのさばるのだった。

平壌に行ったら地位の高い人たちにはみな自分が会い、写真を撮って食事をして、友人のように話をするが、とんでもない。ある意味でかわいそうでなさけない人も多かった。ああいうやり方で生きてゆかなくてはならないのか?あわれに思われる人もいた。親北系のリストにあがっているのが何か自慢であるかのように錯覚して、いばって暮らしている人もいたが、今考えてみたらかわいそうな人生としか思えない。

その後、私はあの人たちと縁を切り、アメリカの僑胞だが、彼らと関わることは全くなかった。(続く)