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これまでデイリーNKで、「北朝鮮初ノービザ入国事件」を3回にわたって連載してきた。だが、まだ終わっていなかった話をここで紹介したい。

91年11月26日(火曜日)、ノービザで北朝鮮に入国した後、強制出国の形で土曜日に北京にまたやって来た。北京に到着するやいなや、筆者の会社の北京支社長に連絡してホテルを蘭?オた。北京駐在北朝鮮大使館には行かず、連絡もしなかった。月曜日に査証をもらって火曜日にまた平壌に入るつもりだった。

だが、もう一度騷動が起きた。北京の朝鮮大使館の領事部長が、私が来たらすぐに査証を渡すつもりであらかじめ用意して待っていたのだが、土曜日にいくら待っても私が現われなかったので、彼も焦って飛行機が出る時間まで待っていたようだった。平壌-北京路線は当時、火曜日と土曜日に週2回運行していた。

飛行機が出発する時間になっても私が現われなかったので、領事部長が平壌に電話をかけて直接確認までした。平壌は、確かに土曜日の朝に飛行機で発ったと言うが、筆者が大使館に現われなかったのでひどく心配したようだった。

領事部長が北京支社に入国確認の電話をかけたが、リュ・ジゴン支社長も私から何の連絡もなかったと言ったので、なおさら緊張したようだった。リュ支社長には、そのように答えておきなさいとあらかじめ言っておいたのだ。

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土曜日に飛行機が平壌の順安空港に到着したのに、私が現われなかったので、出迎えに来た人たちは飛行機の中まで捜したという。こうして私もその人たちに、背負い投げ(?)を一本食らわせた。

平壌に行くために、火曜日の朝早く北京大使館に行ったら、領事部長が私を見た瞬間、開いた口が塞がらないといった表情で手招きをしながら、自分の部屋に入って来なさいと言った。コーヒーを一杯入れて、じっくりと私を説得した。結論を言うと、次からはそのようなことはしないでほしいということだった。

“ノービザで祖国に来た男”が北でも話題に

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ビザをもらって空港で手続きをしていたら、担当が「先生のために、私たちは非常状態になりました! 査証無しで、何をお考えになって入国手続きをなさったのですか。そのようなことはなさらないでください」と言ってきた。

「あ、そうですか。すみませんでした。ところで、今日も査証をもっていないんですけれど」

「冗談はよしてください」

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飛行機に乗ると、女性乗務員が目を丸くして喜んでいた。

「あらま、チャンク先生ではないですか。土曜日に祖国で先生を捜していて大変でした。飛行機には乗っていないと言ったのに、もしかしたら私たちを一杯食わせようとして隠れているかも知れないので、もう一度よく捜してみなさいと言われたんです」

笑うしかなかった…。飛行機一台が火曜日と土曜日にこうして行き来していて、私も頻繁に平壌に出入りしているので、私のことを普段からよく知っていた人たちだったが、今回の事件をきっかけにもっと顔が売れるようになった。

飛行機の中では、男性乗務員と女性乗務員が交互に私のところに来て、2等室に行きましょうと勧めてくれた。あまり断るのも垂オ訳なかったので、席を移った。

特別なもてなしだ。平壌のリョンソンrールに明太も出てきて、ちょっとした酒盛りになった。数本飲んだら、酔ってきた。交代の時間だと言って、飛行機の操縦士も私のところに来てビールを1杯勧めた。どんな人が悶着を起こしたのか知りたくて、私を見に来たようだった。

平壌の順安空港に到着した。いつものようにVIP用のバスに乗ってそっちの方に行かなければならなかったが、わざと一般の人が乗るバスに乗って、一般の人が手続きをするところに並んだ。空港に到着したら警戒心が働いたようで、貴賓室には行きたくなかった。

貴賓室に向かうバスが到着したのに私が見えないので、機転が利くキム・ヒョンチョルが一般の乗客が手続きをするゲートに駆けて来た。「社長先生!どうしてここにいらっしゃるのですか。あちらで副委員長同志とキム・ソンオク副部長同志が出迎えに来て待っていらっしゃいます。貴賓室に行きましょう!」

「そう? ありがとう。ところで、今日も査証無しで来たから、そのつもりで」

「ええ?」と言って、本当にビザ無しで来たと思って、どこかに走って行った。

再入国後、バスケットシューズ製造工場の建設を契約

そのまま見ていられずに呼んだ。「本当は正式に来たのだが、出迎えに来た人たちに会いたくないのでね。車はどこにあるの。このまま、私たちだけ先に行こう。車を待機させなさい!」荷物はなく、パスポートしか持って来たものはなかったので、真っ先に外に出ることができた。

案内員よりも私の方が先に立った。待機していた車が私の前に来た。運転手がすぐに降りて挨拶をしながらドアを開けた。

「ヒョンチョル、早く乗りなさい。運転手同志、早く行きましょう」

案内員のヒョンチョルが、副委員長と他の出迎えに来た人たちに知らせようとして飛び乗った。

そして、私と一緒にホテルまで先に来てしまった。

私がとても怒っていると思っているのか、声もかけてこない。ヒョンチョルには一番沢山案内してもらい、私が平壌を訪問する時は、あらかじめ連絡しさえすればいつでも私の案内を引き受けてくれたので、私の性格をあまりにもよく知っていた。89年7月の第13回世界青年学生祝典の時は、49日間も私と一緒にいた。

いつもは到着した日に簡単な歓迎パーティーをしてくれたが、今日は誰にも会いたくなかったから、私一人にしてほしいと言った。

まだ夕方だったが、ベッドに横になった。寝耳に電話のベルが鳴ったので出たら、キム・ナムチョル指導員とキム・ヨンス参事が、1階のビリヤード場にビリヤードをやりに行ってビールを一杯飲みましょうと誘ってきた。断る関係ではなかったので下りて行ったら、ヒョンチョルもいた。売店でビールを一杯ずつ飲んでいたら、他の人たちも合流してきた。

話題はもちろん、「ノービザで祖国に来た男」だった。私は少し恥ずかしかったが、この人たちに話題を提供できてみな爆笑していた。

出国する日が近づき、ノービザ事件をそのままやり過ごすこともできずに、また私たちは自分の主張をこうやってきちんと伝えて暮らしているということを実際に示すために、海外迎接部のキム・ソンオク副部長宛の正式な公文書を作成して、案内を通じて伝達した。

再入国した私はさらに1週間滞在して、活発に事業に関する討論を行い、キム・ボクシン軽工業担当副総理と万寿台議事堂で数回面談をして、輸出品のバスケットシューズ工場の設立に関する契約を、朝鮮軽工業貿易会社(Korea Light Industry Trading Corporation)と結んだ。

すべて手違いが無いようにしっかりやり終えて出国する日、ホテルの宿泊費をめぐって口論になった。先週支払っていなかった、宿泊費を「犯法者」に2倍払わせる計算をしていたあのお金! 結局、請求どおり支払うはめになった。

これも国の法律だというが、ここまで駄々をこねることはできなかったので、そのまま笑ってやり過ごした。だが腹の虫は納まらずに、本当に変な国があるものだと思っていた。ほろ苦い気分のまま空港に向かい、いつになく沢山来ていた見送りの同志やトンムたち一人一人と熱い握手をして、足取りも軽やかに平壌を去った。

請求書の書類の伝達はきちんとできたのか気になったが、次に入国してキム・ソンオク副部長に会った時、請求書はちゃんと受け取ったと話していた。これからはそのようなことが無いように、特別に注意をしたので、心配なさらないでいらしてくださいと言っている。

書類を伝達できただけでも成功だった。(’北朝鮮初ノービザ入国事件’ 終り)