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朝7時に捜査官と対座してから6時間経ち、午後1時になった。お腹がすいてきたので、お昼ご飯を食べてからまたやりましょうと言った。捜査官はあきれたように眺めていた。

「今、お昼を食べに行くような事件ではありません。チャンク先生は、この事件は大したことではないと思っていらっしゃるようですが、これは大きな事件です。他の国にこっそりと入って来ることは、スパイや亡命者がすることではありませんか。そうでしょう。正気な人がすることですか」

私も負けずに話を続けた。

「ちょっと、聞いてください! もしあなたがスパイならば、査証無しで飛行機に乗って、私はスパイですから捕まえてくださいと言って堂々と入国しますか。そんな頭の良くないスパイならば、国は滅んでしまうでしょう」

突然スパイという言葉が出たせいで、ひとしきりもめた。

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結局、理にかなった話だけしたので、捜査官はノックアウトされたようだった。眉間にしわを寄せて、罪のないタバコだけ首が熱くなるほど吹かして捜査は終わった。だがドアを開けながら、気にかかる言葉を残して出て行った。

「捜査はまだ終わっていませんので、次の指示があるまで案内員と一緒に食堂に行って食事をなさって、部屋で待っていてください!」命令調だった。

昼食も何も、不快でしょうがなかった。向き合って座って罪人扱いされて、自尊心も傷ついていらいらした。昼食を食べてキム・ヨンス参事の前で眉をひそめた。キム参事は大丈夫だと思いますから安心してくださいと言った。

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少しも後悔の念が見られない姿に腹が立ったという保衛員

翌日の朝、木曜日に案内員のキム・ヒョンチョルが息を切らしてやって来た。

「なぜです? 垂オ訳ないことをした、過ちを犯した、許してほしいと言えば良いでしょう。過ちは犯していないと言ったのですか。外国の煙草、買って来たのがあるでしょう。それを2箱ほど渡しながら、うまくやってほしいと言えば、本人もよくしてやろうと思って行ったのに…。会ってみたら、過ちは少しも悔やまずに、ちゃんとしていたと言ったというから、国法に従って措置を取るか、上部と討論して処理すると話していた」と言うではないか。

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罰を受ける覚悟はできている。とても疲れた。部屋に入って、やるべきことを整理して、日にちごとに計画書を作った。捜査当局がどのように出て来るのかは分からなかった。一体どうなるのか分からない。待ってみることにした。

水曜日は一日中調査を受けた。木曜日は午前から相談する相手をホテルに呼んで、一応相談できるようにしてくれた。これも特別に捜査当局がこっそりとすることだと言っていた。ホテルの外には出ることもないが、ホテルの中だけで行動させられた。

夕食後、ガイドが深刻な表情で筆者のところにやって来た。いろいろな関係部署が集まって討論した結果、朝鮮民主主義人民共和国の建国以来、ビザ無しで入国した第 1号だから、法律通りに処理せず情状酌量して許したり、警告程度で解決してしまったら先例になる可能性があり、また国の威信にもかかわるという。

断固とした処置をとって、思想的な問題がない限り一旦追放命令を下し、再発防止のためにひとまず出国させて、北京の大使館でビザを入手させ再入国させることで、今回の事件のけりをつけるという結論だった。

土曜日に一旦出国して、当日北京大使館に行ってビザをもらって、朝乗ったその飛行機にまた乗って入国しなさいという命令だった。私はガイドのヒョンチョルにはっきりと言った。

強制追放するとしても、飛行機代はくれないといけないのではないか

「結局強制追放するということだが、私の話をよく聞きなさい。元々強制追放というのは、犯罪の事実がある時に国内で懲役刑を言い渡されるか、そうでなければ強制追放を命じられて永遠に再入国の機会を失うことだが、私を強制追放するということは、永遠に共和国に入って来られないということではないのか。私の足では出ないから、勝手にしなさい!本当に出したいのであれば、飛行機の切符を準備しなさい。はっきりと上部に伝えなさい」

翌日の金曜日。これ以上頑張ってもだめだろうと思い、ひとまず出てまた来なければならないようだと、私ももう分かっていたので、腹は決まっていた。そのようにすれば、私がしている事業でも、一度約束したことは法律に違反せずに、必ず守らなければならないという認識も周知させることができる機会になるだろう。

夕方になった頃、案内員のヒョンチョルがドンドンと戸を叩いた。

「チャンク先生! ちょっと戸を開けてください。ハン・シヘ副委員長同志がいらっしゃいました!」

ハン・シヘ? 初代国連北朝鮮大使を6年間も務めた人ではないか。今は米州同胞担当の総責任者だ。これは、うまくことが運びそうだ。これ以上我慢していたら、男の自尊心にひびが入る。平静を装ってドアをぱっと開けて、笑顔で出迎えた。

アメリカのことをよく知っている実力派、ハン・シヘ元大使。アメリカ人よりも英語が上手いというアメリカ通だ。ことの顛末は報告を受けているのでよく分かっていると言いながら、今回のことについて内部で原因究明をした結果、業務上支障が生じて、社長先生に苦痛を与えたことに対する謝罪は私がしますので、私のためにももうこの辺で気持ちをはらして協力してほしいということだった。

「空港から捜査当局に連行しなければならないと言われて、社長先生を渡してくれなくて、私たちはまたどれだけ苦労したか…もしその時、そのまま捜査当局に連行されていたら拘束されていたが、そのようになったらことがもっと大きくなって、私たちとしても悩みが多かった」と話した。

北朝鮮政府に、ビザを発給してくれなかったことに対する損害賠償を正式に要求

少し早い夕食をハン・シヘ副委員長とロ・チョルス参事たちと一緒にとった。そこで北京に行く飛行機の往復チケットももらった。

だが捜査当局は、この間あれこれと怪しい行動が多かったと、ずっと疑っていたという。実際に、事件にすれば非常に大きな事件だ。万が一拘束されてスパイ容疑でも着せられて、マスコミが騷いだらどうなっていたかと思うと、めまいがする。

一緒に食事をした人たちは、「本当に、肝っ玉が太い人ですね」と言っていた。こんなことになったら弱気になって言われるとおりにしてしまうのに、日増しに正しいことをしているではないかと度胸が据わってくるので、実に驚いたと言っている。

かくして、4日間続いた戦争(?)が終わった。

後で聞いた話だが、空港で4、5時間かかったのは、捜査当局は連行すると言って、海外同胞援護委員会はだめだと言って、結局キム・ボクシン副総理と援護委員会の委員長が空港に直接電話をして身柄を引き受けたが、その条件が普通江ホテルに宿泊させるということだったそうだ。

出国しようとしていた土曜日の朝、ホテルの勘定書を渡された。普段は500ドルくらい払えばよいのだが、その2倍請求された。ホテルの職員がその理由を説明する。

「社長先生は犯法者ですので、一般の宿泊費の2倍で計算しました。法的にはそのように計算しなければならないそうです」

「何、犯法者?私がなんで法を犯したというのだ」

また騷動になり、ホテルのロビーのカウンターでもどうすれば良いのか分からなくなり、総支配人を呼んで来て大騷ぎになった。ホテルの部屋の荷物は置いたまま、急いでパスポートとチケットだけを持って空港に向かった。

空港で出入国管理事務所長にお礼の挨拶をするようにと言われた。

「こんにちは。お会いできて嬉しいです」

「あ、社長先生は本当に運が良いですね! 他の人でしたらちょっと苦労したでしょう!次また査証無しでいらしたら、その時は…お分かりでしょう。お気をつけて!今日の午後の飛行機で行かれるのですか」

私は何も言いたくなかったが、「またお会いましょう」と答えた。

北京に到着するやいなや私の会社の北京支社長と連絡して、ホテルの蘭??鰍?セが、大使館には行かず連絡もしなかった。月曜日にビザをもらって火曜日に平壌に行くつもりだった。

だがもう一度、騷動が起きた。北京の朝鮮大使館の領事部長が、私が来たらすぐにビザを渡そうとあらかじめ作って待っていたのだが、私が現われなかったので心配して飛行機が出発する時間まで待っていたようだった。

平壌に行くために火曜日の朝早く北京の大使館に行ったのだが、領事部長は私を見た瞬間開いた口が塞がらず、手招きをして自分の部屋に入りなさいと言ってきた。コーヒーを一杯入れて、じっくりと私を説得した。結論は、つまり次からはそのようなことはしないでほしいということだった。

私は平壌に行って正式に、北朝鮮政府にビザを発給してもらえなかったために発生した被害を補償してほしいという文件を提出してきた。西側世界では、自分の主張をこうしてきちんと伝えて暮らしているということを示すという目的があった。海外迎接部のキム・ャmク副部長宛の正式な公文書を作成して、案内を通じて伝達した。渡せただけでも幸いだった。

私も文件が伝達されたため満足して、この事件にけりをつけた。