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WFPが‘世界食糧計画’という国連の団体ということは、平壌市民ならほとんど知っている。このお菓子は国連が北朝鮮に援助として与えたものであるのは間違いない。国連が私たちに援助として与えてくれたものであり、お腹がすいている時に、ご飯の代わりに食べるように送ってくれたものであるのだろうが、こうした援助食品が、アリランのような国家行事で大量に使用されている。

- 国連にこうした事実が伝えられてはいないようだ

アリランのような国家的行事には、平壌に住むすべての外国の使節と、お客さんたちがすべて招待される。5月1日競技場の1等席は外国のお客さんだけが座ることができる。その中には確か国連の幹部もいたはずだ。国連の幹部は、朝鮮の政府が幼稚園児たちに国連が送った援助食糧を食べさせながら、このように荒唐無稽な行事を準備したという事実を知っているのだろうか。

-子供たち以外に中学生、大学生、一般の人たちの公演の準備はどのようにするのか?

10万人近くが参加するアリラン公演だが、幼稚園生、小学生、中学生、大学生は、昼も夜も、夏も冬も訓練ばかりする。社会の企業所に通う青年の男女と家庭の主婦も、炎天下の日差しの中で、また吹雪の中で動作の完成のために汗を流さなければならない。

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軍人の場合、剛健軍官学校の学生たちだけが動員されるという。剛健軍官学校の学生たちは閲兵式やマスゲームで、朝鮮でも最高といわれている。だが、行事の準備中に事故が発生することも頻繁だ。そのままばたばたと倒れたりもする。

- 公演の準備のために組職の編成を別に行うのか?

アリランの参加者たちを対象に、臨時組職が作られる。軍隊の組職を真似て、縦隊、大隊、連隊の順に単位を決めて、政治分野と行政分野の組職も作られる。毎週公演の準備をまじめに遂行したのかなどを点検する、生活総和が行われる。毎月、政治講演も開かれて、アリラン公演にまじめに臨むことを督励する。生活総和ではアリラン公演に不真面目であったり、参加しなかった人々に対する厳しい批判が続く。

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そして自分の番が来れば、後方事業もしなければならない。後方事業とは、アリラン公演に参加する10万人におやつなど必要なものを調逹する事業だ。

家族も疲れるのは同じだ。試演会がある日や実際の公演期間には、夜12時に一緒にかたまって歩いて、家や宿所、学校の寮に帰らなければならない。彼らを出迎えるために、親は夜には通りに出て並ぶ。

- 後方事業について詳しく教えてほしい

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小隊や縦隊別に所属の単位の人々を食べさせるおやつとして、ねじりパンや餠、パンなどを調達することだが、1人が普通30人分を準備しなければならないから、経済的負担が大きい。

夏には後方事業で氷菓子を買って運ばなければならないことも多く、公演に必要な化粧品を用意することも、参加者を圧迫させ苦しませる、主な後方事業だ。行事の服をまねた訓練服も、参加者が自分で買って着なければならないし、靴も自分のお金で買わなければならない。

- 平壌の住民がアリラン公演に動員されるという話があるが

当たり前ではないか。アリランの観覧券は2005年当時、2等席が500ウォン、3等席が300ウォンだった。1等席は党の幹部、国家の高位幹部、外国の人々が座る席だと、朝鮮の人には観覧券を売らないので、値段はよく分からない。地方の人はそれでも2等席を買うことができるが、平壌市民は大抵、3等席だけ買える。3等席は背景台のすぐ横の、奥まったところで、背景台のカードセクションがよく見えない。ただ絵本を持っている子供達の頭だけが見える。

平壌市民には、座席の数を満たさなければならない義務が与えられる。平壌市の党委員会から、義務的に切符が配られる。所属の大学、職場、人民班で観覧浮??ッたら、女性はチマチョゴリ、男性は派手なシャツの洋服を着て、5月1日競技場に行かなければならない。

5月1日競技場の広場に入り、競技場周辺に設置された売台で食べ物を買ったりする。普段、公演の入場は6時からだが、公演の終わる時間は10時〜11時だ。公演が終わる時間にはバスや軌道電車が走っていないので、家につくのは夜明けの2時や3時になる。そのため、持っているお金を全て集めて、食べ物を買って競技場に入場する。

- 公演を見る平壌市民の反応はどうなのか?

競技場の3等席は椅子が硬いプラスチックでできているが、背もたれもない。椅子に座るとお尻が冷えて、長時間座っていれば足が痛くなる。競技場に入場して数時間待ってやっと公演が始まるが、いくら面白くても何回も見れば、感興も減ってくる。ましてや2000年に始まり、2005年まで数初?ノわたって、それも横からだけ見るのに、感激するだろうか。甚だしくは、うつらうつらしている人もいる。

公演が始まれば、行事が終わった後に迅速に競技場を抜け出る問題で、頭が痛くなる。10万人を超える人波の中で迷ったら、いつ家に到着するか分からない。それで最後の章が始まったら、こそこそと観覧席を密かに抜け出る人もいる。

公演が終わる前に出たことが分かれば、また所属単位の批判の舞台に立たなければならない。とにかく、無い知恵を働かせてこっそりと観覧席をすり抜けて来て見れば、上には上がいるもので、私より先に出て来て、前で道をあけろと急き立てる人たちがいた。この後は、町角ごとに並んでいる監視隊の目を避けて逃げなければならない。

- アリラン公演に出演すれば贈り物を与えると聞いたが

正直に言って、アリラン公演の練習に苦労している息子を見ながらも、公演が終わってからもらえる贈り物を待っていたことも事実だ。2002年のアリラン公演が終わると、行事の参席者たちは想像もできない贈り物をもらったからだ。参加者たちにアリランカラーテレビ1台、アリランかばん 1つ、アリランノート10冊、万年筆1つ、時計1つなどの贈り物が与えられた。

この時与えたテレビは中国の業社、チャンホン(ChangHong)が作ったものだったが、みんなはこれを‘アリランテレビ’と呼んだ。当時、平壌の第1デパートで、朝鮮の貨幣で15万ウォン以上で売っていた。アリラン公演のおかげで、テレビや布団、食器セットなど、結婚の結納をすべて新調したと自慢する女性たちもいた。私の知り合いの家では、父親は行事の指導員で、母親と息子は公演の出演者で、息子は後方事業担当でアリランに参加し、一度に4台のカラーテレビをもらっていた。

だが2005年のアリラン公演が終わると、参加者たちはまた別の衝撃を受けた。平壌市民は、2002年にカラーテレビが出たから、今度は‘スリラン極凍機(冷蔵庫)’や‘テレビ録画器’を期待したが、2005年の贈り物は‘ミシン’だけだった。今、北朝鮮の住民はそれぞれ個性にあわせて服を作って着るための布を用意することもできない。富裕層は中国と日本の最新の流行服を選んで着ている。だから、ミシンは置物にしかならなかった。失望して涙を流す参加者も多かった。

結局、‘アリランミシン’は平壌の市場に追い出された。‘贈り物’は私的に売買することができないが、生活に困窮していた市民たちは皆、密かに市場で売った。今も平壌の市場では‘アリランミシン’が5〜6万ウォンで売られている。

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