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1991年11月に、平壌からのファックスを1枚受け取った。

「11月26日に北京駐在北朝鮮大使館で、査証(ビザ)を発給してくれるはずなので、期限内に平壌を訪問しなさい」という内容だった。

ちょうど事業で訪問するためにビザの発給を待っていたので、すぐに平壌を訪問することにした。ロサンゼルスを出発して、ソウルと香港を経由して4日後の日曜日、24日に北京に到着した。

翌日25日は月曜日だった。いつもそうだったが、外国の煙草やお菓子、飴を沢山買って、北京駐在朝鮮大使館にビザをもらいに行った。領事部長のハン先生が喜んで出迎えてくれた。あまりにも頻繁に来るので、査証担当の領事部長も親しかった。

大使館では職員の奥さんたちが正門で守衛勤務についていたり、交替で査証業務をこなしている。普通、外交官の夫人は現地の大使館の業務を手伝ったりはしない。だが、北朝鮮の外交官の家族は直接出て来て業務を補助している。単に手伝っているだけでなく、正式に勤めているのである。

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領事部長のハン先生が「突然どうしたのだ」と聞いてきた。

「共和国に行きたいので、査証をもらいに来ました」と言うと、「ちょっと待って。査証命令が出ていないのに?午前中の連絡名簿になかったが」と言い、「もう一度よく見てください。他の人は知りませんけれど、チャンク先生は私の記憶どおり名簿にないでしょう」と答える。

私は「海外同胞総局から、明日行って来なさいという連絡をもらって来たのです」と言い、もう一度よく見てほしいと頼んだ。

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ハン先生は午後4時にもう一度連絡が来るので、その時まで待ってみようと言った。ビザを発給してもらうのに、一回も支障がなかったので、当然午後には連絡が来ると思っていた。領事部長も、待っている間することがないから、まず飛行機のチケットを買ってくださいと言った。


ビザなしで北朝鮮に入国


北朝鮮の高麗航空の飛行機は、ビザがなければ切符を買えない。だが、頻繁に行っていたのでビザがあると思って、確認することもなく飛行機のチケットをくれた。往復のエコノミークラスが260ドルだった。

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午後になっても、平壌の外交部から最終の連絡がなかった。領事部長もおかしいと言った。チャンク先生のビザが出ない理由はないということだった。アメリカを出発する時、訪問要請のファックスを持ってきたので、領事部長に証拠として見せた。大使館側は本国に連絡をするので、明日の早朝に、飛行機に乗る準備をして大使館に来なさいと言った。

26日の火曜日。この日も平壌からはビザ発給の連絡が来なかった。切羽詰った大使館が平壌に電話をかけると、「しまった、間違って名簿から抜けてしまったので、土曜日に来なさい」という連絡が来たという。かっとなって、けしからんと思った。

土曜日まで4日間も、北京でぶらぶらして1日150 ドルもの費用を使って、どうやって待てというのか。どうして中国でお金を使わなければいけないのか。お金は平壌に行って使うべきだろう。飛行機のチケットもある。とりあえず、空港に向かった。手続きをしてだめならば仕方ない…。自尊心を傷つけられて、我慢できなかった。間違って名簿から抜けて、中国で待機しなさいとは。何しているんだと思った。

領事に挨拶する暇もなく、空港に駆け付けた。手続きをするカウンターでもビザがなければ手続きできないのは当然だ。だが職員も、「あ、チャンク先生。また祖国に行かれるのですか。よくいらっしゃいますね。先月も行って来られたでしょう」と言って、ビザがあると信じて手続きをしてくれた。


「案内員同志、実はノービザで入って来ました」


胸がどきどきしてのどが渇いた。後ろから職員に、ビザを見るために呼ばれている気がした。急に不安になって、めまいまでしてきた。無事に飛行機に乗った。何か間違いが生じて、「チャンク先生! ちょっと見ましょう」と言われるのではないかと思い、乗務員の目も避けた。間もなく飛行機は空高く上がった。もう、結果はどうなっても私も知らんと思った。とにかく、平壌に攻めこまなくてはならない!

平壌まで1時間のフライトだったが、いくら頭をひねっても妙案が浮かばなかった。ああ、もう知らない! 向こうから来るように言ってきたので、アメリカから6日もかけて来たのに、私の過ちは何一つないと、度胸が据わってきた。着いた私を追い出すだろうかと思ったが、頭の中は複雑だった。

飛行機は無事に順安空港に到着した。いつものように、VIPの方に行くバスに乗って、何食わぬ顔で控室に行った。海外同胞総局から来た人がいるか捜してみたが、その日に限って1人も見えない。おかしい。他の時は1人か2人は知り合いが必ずいたのだが。みな、嬉しそうに挨拶をしながら、入国手続きをするために慌ただしそうにしているが、私は誰も知り合いがいないから、ぶら下げられた麦袋の心境だった。

他の人はほとんど出て行き、私だけが残った。焦った。VIP室で働いている女性職員も私のことをいぶかしがって、首をひねりながら私に近付いて来た。

「どこからいらっしゃったのですか。誰も出迎えに来なかったんですか」

入国手続きの用紙に記録することもない。ただ、紙だけ持ってずっと座っているから変に見えるはずだろう…
ここで告白しなければ!

「どこからいらしたんですか。スパイではありませんか」

「あの、案内員同志! 私はアメリカの同胞ですよ。実は、査証なしで来ました。すみませんが、外に出て海外同胞総局から来た人がいたら、誰でもいいからちょっと呼んでください」

「はい!? 何ておっしゃいましたか」

「あ、忙しかったので、査証なしでそのまま来たって言ってください!」

「え? 査証なしでそのまま飛行機に乗ったんですか」

雰囲気が緊迫してきた。

この女性職員は私よりも驚いて、あわてて外に走り出た。少ししてから戻って来て、女性に「あの先生はご存知ですか」と聞いた。

その女性は「あら、チャンク社長先生ではありませんか! どうなさったのですか。誰も出迎えに来なかったんですか」と言った。私は知らなかったが、幸いその人は海外同胞総局のキム・サノク案内員で、私のことを知っていた。

私はキム案内員が私を連れて行ってくれると思ったが、顔だけ見せて出て行った。待っていても誰も来ない。私の愚かな推測だった。

私が持って来た、移民の包みのように大きな2つのかばんは、冷たいコンクリートの底の上に置かれて、主人を待っているのだろう。中にはいろいろなものがすべて入っている。中国で準備した腕時計用のバッテリーや掛け時計用のバッテリー、それだけでも5キロを超えていた。

それ以外にも、冷凍ニワトリ3匹が、重なり合ったビニール袋の中にうずくまっているはずだ。北京支社長の奥さんの家に持っていってほしいと言われた品物だった。その他お菓子や飴、パン、爪切り、ソウルの南大門市場で贈り物用に準備してきた数書ォの靴下と下着、ストッキング、スカーフ、マフラーなどはいつもプレゼント用に持って来ていた。

順安空港が超非常状態になり、険悪な印象の人たちが行ったり来たりして一言ずつ聞いてきた。

「どこからいらした同胞ですか。もしかして、スパイではありませんか」

「初めて共和国にいらっしゃるのではないでしょう」

「共和国にはどうしていらしたのですか。南側から送られて来たのですか」

目を血走らせて一言ずつ聞いて睨んできた。

「殴ってやらなければならないな。ここがどこだと思って、勝手に来たんだ!」

「共和国創立以来、初めて査証なしで入国した変な人がやって来た」

空港の出入国管理事務所長の部屋に案内された。静かに聞いてきた。

「査証なしで、どうやって飛行機に乗ったのですか」

ありのまま、これまでの経過を話した。虚勢をはってくる。今日は出る飛行機がないから、4日間だけ空港で待機して、土曜日に北京に出なさいと言われた。

「共和国創立以来、初めて査証なしで入国した変な人がやって来たが、空港には寝る部屋がないからどうするか」

事務所長のかみなりが落ちた。

「失敗したな」と思った。心細くなった。震えてきた。このまま拘束されて、スパイの濡れ衣まで着せられて、アオジ炭鉱に行くのではないのか。あれこれと考えが頭をよぎった。それでも、まさか私が。情状酌量をするだろう。私が知っている平壌の人が助けてくれるだろう。総理をはじめとして、位が高い人たちの姿が流星のように頭をかすめた。(続く)