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全巨里教化所の親分は教化所の所長で、その下に副所長、政治部長、幹部課長がいて、1~5課には課長と秘書級保安員、管理保安員、そして一般の保安員がいる。聞いたところによれば、全巨里教化所は1970年代末に<第22号青年教養所>という名称で建てられ、当時は教化所のコンクリートの壁の高さが6mあったそうだ。

1980年代半ばに<第12号教化所>に名前が変わり、コンクリートの壁の高さも8mと高くなった。今も全巨里教化所では20年以上前に積み足した壁がはっきりと見分けられる。

教化所の体系は1~5課に分けられていて、保安課と教化課、生産課、財政課、労政課、幹部課がある。2課と4課、5課を統率する別の分所所長がいるわけではない。本所と2つの分所にはそれぞれ罪人たちを管理する管理保安員や課長、書記たちがいる。

本所のコンクリートの壁は、1辺がおよそ120mの長さの正四角形のようになっていて、その中に監房や倉庫、落伍者の休憩室、木工班、設計班、公務班、酷熹ヌ、炊事場、伐木班、病院、薬局、上下車班(乗車、下車して作業したものを積む仕事。作業班の名前)、車修理班など班ごとの作業場や休憩室が並んでいる。

2ヶ所の分所はコンクリートの壁ではなく鉄条網で囲まれていた。この垣根は高圧線で、高さ3mの電気鉄条網を中心に両側に3mにわたって同じ高さの有刺鉄線があり、幅6mの3重の鉄条網がはられていた。

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教化所の幹部の家族の数は800~900人余りで、極少数の一般の社会人が本所を中心に、上はサンドン村に12世帯、下は遮断警戒所から1.2kmのところにあるハドン村に30余世帯が暮らしていた。

チュンドン村は教化所の垣根の東西の方角にあって、160世帯以上が住んでいた。このように、第12号教化所は1つの本所、2つの分所、10以上の課に分けられていて、収監者たちを管理している。

保安員たちが使う施設以外の罪人の施設は、普通の人が想々できないほど劣悪な環境だ。監房や仕事部屋、休憩室は言うまでもなく、生活必需品や衛生施設ははるか遠い昔に冠をかぶってろ馬に乗っていた時代が思い浮かぶ。

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私が入所した時、監房は動物のおりよりひどかった。壁と天井、床は砂と木のおがくずを3:1の割合で混ぜて、石灰の粉を解いた水で練って作ったもので塗っていた。朝鮮ではこうして練ったものを「サマロ」と言うが、セメントの代用として使われている。すぐに粉が落ちてしまう。

そのため食事の時間には、天井や壁から固まりが落ちてくるのでご飯をうまく食べられないことも多かった。私も入ったばかりの時に、お汁にご飯を入れて食べていた時、サマロ爆弾の洗礼を受けたことがあった。ご飯をお汁に入れていなかったら、粉を掻き出して食べればよかったが、ご飯をお汁にひたしてしまったので、ひどい状況になったのだった。

けれどもその時はあまりにもお腹がすいていたので、おがくずと砂が混じったご飯を一気に飲み込んでしまった。サマロの粉よりも辛かったのはしらみや南京虫、のみだった。

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節日に休める日は、明るい昼間にすべての監房の人が一緒にしらみとりをするのだが、奴らは生存方法を悟っていて、私たちが服を脱いで爪を当てると服から落ちて床と壁の隙間に隠れてしまった。

もちろん夜になれば、また人の体の上に這い上がってきた。真っ黒い床は昼間見ても隠れているのを探すのは難しかったし、命題カード(金正日の教示を書いた10枚の紙)や準則版などはすっかり南京虫の巣窟になっていた。

収監者たちは監房にいる時、就寝時間以外は正座して座っていなければならなかった。正座している所が寝床になった。班長が役割を果たせない監房は天井にくもの巣まであって、本当に牛小屋のようだった。

そこに南京虫やしらみ、ごきぶり、蚊が1年中うようよしているので、どう見ても人が住む所とは思えなかった。監房の中には便所がぽつんと1つだけあったが、いつも便の臭いが充満していた。

だが教化所生活が長くなればこの臭いを感じなくなる。便の臭いを感じることができない収監者でも、他の臭いは鬼のように嗅ぎ取った。

時折官房の中で衛生検閲が行われたが、監房を見る保安員たちは皆、顔をしかめたまま鼻を覆ってほとんど振り返らなかった。そして上部には、非常にきれいな環境を提供しているというウモフ報告をするのだった。

収監者の体から出る悪臭は、野外でも感じられた。教化所の外で時折出会う社会の人たちは、収監者の隊列を見ると顔をそむけて鼻を塞いだ。

班長や極少数のこぎれいな収監者は、10日に1回程度は服を洗って着ていたが、ほとんどの収監者は一年中同じ服を着て眠り、また仕事もした。だからどうしても臭うのだった。

千人の収監者が収容されている本所には、50平方メートルほどの手洗場がたった1つある。洗面台のようなものはなくて、レンガを積んでセメントを塗った水槽が1つあるだけだ。そこで水を汲んで、洗面できるように班ごとに木のたらいを10個ずつ作って、手洗場の一方のすみに積んでおいて使用したが、適当にくぎを打ち込んで作ったたらいだと水が溜まらずにすべて漏れてしまった。

収監者全員が体を洗うためには水がかなり不足していて、時間も十分になかったので、1列に並んで手洗場に入ったら、それぞれ持っていたタオルや布切れをたらいに1度入れて取り出して、それで顔と手をぬぐった。少しでもぐずぐずしていたり、水槽に布を2度つけたりしたら、上から収監者を見ている手洗場の管理人の棒が容赦なく飛んできた。

教化所では人数に関わりなく、教化班ごとに1年に布団1つ、半期ごとに靴7~12足、綿が入った服や下着などが支給される。だが、これも担当する保安員たちが半分取ってしまうので、収監者の服や靴など、生活必需品の実態はひどいものだった。

服は縫ってつぎはぎだらけになったものを着て、靴は底がすべて擦り切れて足の指やかかとがよく見えた。時々保安員の家で畑仕事をしたり、家の修理をしてやる時に家に入って見たが、家庭ごとに蜂蜜を採取する蜂の筒があり、そこに被せてある保温用の布は全て、収監者に支給されなければならない服や布団を裂いて作ったものだった。

保安員たちは毎日、収監者の身なりと靴の状態を目の前で見て暮らしていたが、収監者に支給しなければならない生活必需品を引き抜いて豚小屋や犬小屋、蜂の筒の保温用の布として使った。彼らは私たち収監者を自分たちの家のおりにいる犬や豚よりも価値がない存在だと考えていたのだ。

監房にある電気の施設は、ぶら下がっている電球1つだけだった。それさえも電圧は100Vもなかったので、電球1つはろうそくとあまり違いがなかった。夕食後の学習時間には、うす暗くてよく見えなかった。

冬になって監房の通路の暖炉を焚くと、煙が外に抜けずに監房の内に入ってきて、廊下に煙が立ちこめるほどだった。そのため、毎晩煙のせいで、涙を流してごほんごほんと咳をして暮らさなければならなかった。

教化所で保安員たちが一番望む仕事は保安課だった。私が教化所にいた時、保安課長の名前はナム・ビョンシクだったが、当時40代後半で165cm程度の体格だった。

保安課長は国家秘密特殊捜査要員であるだけでなく、人の腹の中を見通すような鋭い性格の持ち主だったので、教化所の所長もあれこれとないがしろにできない存在だった。私もこの人に3回も取り調べを受けたが、彼の目つきは今でも忘れられない。

普段はとても優しそうで、収監者とも親しくしているが、取り調べの時は目を合わせるのが辛いほどの威圧感と鋭さで収監者を圧迫した。取り調べが終わると他の保安員たちと違って、とても細々とジレンマを聞き入れるふりをしながら、自由自在に収監者からほしい情報を探り出す賢い人だった。

保安課は罪人だけでなく、担当する管理保安員を含めて教化所内の全ての人の一挙手一投足を監視し、反党的な行動が少しでも見られれば容赦なく処罰した。そのため、保安員や彼らの家族は保安課の幹部を「ゲシュタポ」と呼んで恐れた。