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[前編へのショートカット]2ヶ月後、平壌を訪問した際にジーンズの見本や布、裁縫の針、糸などを用意してK社長にプレゼントとして買った化粧品と一緒に送った。

その時、K社長が自ら作って私にくれたスーツを、妻が「とてもいい」と言ったという妻のお礼も一緒に入れた。もちろん、妻はそのようなことは言っていなかったが、K社長の誠意がありがたくてお礼として入れてしまったのだ。その時はすでに会社の名前が「大成総局・楽園被服合作会社」に変わっていた。

会社の名前が変わったことについてガイドに聞いてみた。すると、「楽園よりも大成総局の方がもっと大きく感じられるので、これからもキム・チャング先生と合作会社をするためには大成の方がいいのではないかと思い、上級機関と話し合った上で変えることを決めた」と説明された。

ジーンズの布を送ってから何日か過ぎたある日、厚い布が裁縫できるミシンがないため、見本を作ることができないという連絡が来た。残念なことだった。今あるミシンで何回も試みたが、裁縫の針が折れてしまったということだった。ズボンを作るのは難しくないが、機械のせいで今回は駄目になり、今度来たら作っておくと言われた。

「次は機械がどこから来るのか」と聞いたら、何があってもやっておくという返事しか返ってこなかった。

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ジーンズはアメリカ帝国主義の象徴なので生産は困難

こんなに厚いジーンズを作ったことがないため、平壌にはそれを作ることができる裁縫機械がないという。銀河貿易は一番大きな縫製工場だが、機械がないという。本当に皮肉なことだ。しかし、それよりもっと皮肉なことを耳にした。

平壌を発つ頃、ガイドに「ジーンズはしばらく難しそうです」と言われた。

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「なぜ?!」

「上部からその服はアメリカの帝国主義者が全世界に資本主義の象徴として流行らせた洋服なので、共和国では作ることができないと言われたそうです」

「何?あれもこれも駄目なら、いつお金を稼ぐつもりなんだ!」

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本当におかしな国だと思ったが、それ以上何も言わなかった。

数ヶ月後、平壌行きの飛行機に乗るために中国の北京空港で手続きを終えて待っている時、偶然K社長を見かけた。私は一瞬嬉しさのあまり大声を出しそうになった。嬉しそうな顔をして近付く私を見て、K社長は急いでむこうに行ってしまった。

私はK社長が私に気づかなかったのだろうと思い、大声で呼んだ。彼女はふと私の方を見たが、その顔とそぶりには私と関わりたくないという雰囲気が漂っていた。前回は平壌であれだけ喜んでスーツまで作ってくれたK社長が…。私を「兄さん」と呼ぶと言った人がなぜ私に知らんぶりしているのか、そのわけが分からなかった。

2回目から私から顔をそむけたK社長

ジーンズの話が駄目になったとしても、平壌ではなく北京で私のことを知らんぶりするなんて、本当に変だなと思った。世の中の常識から考えると、絶対にあり得ない行動だから、私自身も戸惑ってしまった。「何かわけがあるんだなぁ」と思い、私もそれ以上しつこく近付かなかった。

平壌に行けばその理由が分かるだろうと期待して、平壌行きの飛行機に乗った。K社長も同じ飛行機に乗ったが、もちろん機内でも互いに知らないふりをした。平壌の順安空港でもそうだった。その後、私たち2人は見知らぬ他人どうしになった。

この機会に、K社長に私の心を込めた手紙を送りたい。10年近く歳月が流れたが、今もK社長の瞳が忘れられない。

K社長、

日本に帰国することができない社長を思うと胸が痛みます。けれども、小さいけれども車の工場もうまく行っているし、日本にもたまには行けるということを聞いて、他の帰国者よりはよい環境に恵まれていると思い、本当に良かったと思っています。

大変ですが、これからもがんばって生活してください。私を見ても知らんぶりをしなければならない社長の立場も、今はよく分かっています。これからも知らんぶりされてもいいです。2人でビジネスの話をしたことも忘れてください。

私はK社長が「兄さん」と呼ぶと言ってくれたことを今も覚えています。平壌に離散家族が1人できたというのが私としての感想です。あの時、妹と一緒に縫製ビジネスを大きくしようという夢を見ただけです。私も今後あの時のことを全部忘れます。良かったのは、楽園のリー社長に何回かお会いしましたが、K社長のことは一切言わなかったことです。

日本の東京でK社長の知り合いである朝鮮新報社の人や親戚に会って、お酒を交わしながらいろいろ話をしました。けれども、K社長のことは一言も話しませんでした。

これからもお幸せにお暮らしください。