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在日韓国人2世のオペラ歌手田月仙さんは今年の初め、自叙伝『海峡のアリア』を通じて、’在日海外同胞の北送事業’がもたらした家族の悲劇史を打ち明けた。

東京で生まれた田さんは、朝鮮総連係の学校を卒業して、桐朋学院の音大を経て、日本の代表的オペラ団である二期会に入団、声楽家としてデビューした。以後、日本を代表するプリマドンナに成長、日本を含めてアメリカ、ヨーロッパはもちろん、平壌やソウルでも公演を開催した。

田さんは自叙伝を通じて、北朝鮮に帰国した4人の兄が、全員北朝鮮の耀徳収容所に引かれて行き、息子たちの血なまぐさい状況を知った田さんの母が、北朝鮮の人権惨状を告発するために献身した話を公開した。

しばらく前に日本で出版された田さんの手記は、出版社小学館が制定した、第13回ノンフィクション大賞の優秀賞に選定された。

◇ 悲劇の趣旨…在日海外同胞の北送事業

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田さんの母は、最初の夫との間に4人の息子を持った。

小学校時代まで兄たちの存在について知らなかった田さんは、ある日色褪せた一枚の写真を見つける。母は高校生になった田さんに、初めて北朝鮮に渡った異母兄について話しはじめた。

在日朝鮮人社会に北送事業の狂風が吹き始めた1960年、田さんの兄たちも‘地上の楽園’に対する希望に満ちた期待を抱いて、‘万景峰号’に乗った。

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北に行った兄とはじきに連絡が途絶え、母は田さんの父と知り会って新しい家庭を築いた。

そのうち、母は1971年に手紙を一通受けとる。北朝鮮に渡ったお母さんの友達が送った手紙には、‘息子たちが収容所に収監された’という青天の霹靂のような消息が記されていた。

田さんの母は当時、北朝鮮の社会と朝鮮総連、そして金日成に対して絶対的な信頼をおいていたため、その言葉を信じることができなかった。しかし、似たようなうわさが聞こえてきたため、母は息子たちがどうやって暮らしているのか自分の目で直接確認するために、1980年に北朝鮮を訪問した。

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母は平壌のあるホテルで、3人の息子と涙の再会をすることになる。二番目の息子が死亡したという消息とともにお母さんを驚かせたのは、息子たちの健康状態だった。顔はやせ、健康もよくなさそうだった。また、母は息子たちが何かを非常に恐れていると感じた。

監視員がしばらく席を外した時、3人の息子はどうしても信じられない話を母に語って聞かせた。自分たちは10年以上、収容所に収監されて釈放されたと伝えたのだ。拷問が日常化している収容所で一日一日を脅えて暮らしたという告白だった。

息子たちの言う収容所は、人々が拷問と飢えで死んで行き、逃げだしてつかまれば公開処刑にあい、子供達まで毎日死んで行く‘生き地獄’そのものだった。

その後、母は北朝鮮を数回訪問したが、二回目に訪問した頃、息子たちが収容所に行くようになった経緯を聞くことになる。

1969年の夏に、息子たちは‘南朝鮮のスパイ’という罪目で北朝鮮政府に逮捕され、一般の監獄に収監されたということだった。以後、1970年に耀徳収容所に移送され、1978年に釈放される。

ところが彼らは自分たちがどうして収容所に収監されたのか、正確な罪名さえ分からなかった。ただ芸術が好きだった長男が、‘ミケランジェロを尊敬する’と語ったためにひかれて行ったようだと推測していた。

◇ 北の現実を知りつつ、体制を称える歌は歌えず

日本に帰って来た田さんの母は、この時のショックから健康が極度に悪化した。しかし、母はこの時から北朝鮮の収容所を証言する活動を始める。当時、海外同胞の社会では、北朝鮮に対する信頼と恐怖が同時に存在したため、北朝鮮の実態が分かっても、ありのまま話しにくい状況だったという。

ところが母は、自分が直接経営する韓国食堂に来るお客さんに、北朝鮮の実態と政治犯収容所の存在について語り始め、この証言をもとに、日本国内で‘北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会’というNGO 団体も発足した。

田さんと兄たちの再会が実現したのは1985年のことだった。田さんは4月15日、金日成の誕生日を迎えて、朝鮮総連の文化局から、‘春の親善芸術祝典’に参加してほしいという要請を受ける。北朝鮮を訪問した田さんは、金日成の前で革命歌劇‘血の海’のアリアを歌った。

田さんは公演が終わった後、ホテルで兄たちに会うことができた。数十年ぶりに初めに会った兄との間が、最初はぎこちなくて緊張もしたが、共に話を交わしながら家族の情を確認することができた。

兄は田さんに、この間密かに書いてきた手紙を、母に渡してほしいと言って手渡した。手紙には北朝鮮で暮らしてきたこれまでの苦しい生活と、金正日に復讐するという内容が書かれていた。

田さんはその後も訪朝の招待を受けたが、断ったという。兄たちの現実が分かり、この体制を称える歌を歌うことができなかったというのがその理由だった。

その後、1990年に長男であった兄が死亡し、2001年には三番目の兄も世を去った。

田さんは1995年に日本を訪問した姜哲煥氏に出会い、兄に対する話を再び聞くことになる。姜氏は兄たちと耀徳収容所の友人を通じて知りあうようになったという。姜氏が北朝鮮を脱出した当時、兄は日本から母が送ってくれた服まで与えたという。

本ではまた、在日朝鮮人の北送事業に関する歴史の暗い記憶がありありと描写されている。

北朝鮮に渡った在日韓国人は、北朝鮮政府の絶え間ない監視と統制の中で暮らさなければならなかった。母は田さんに、帰国事業で子供を送った親たちが多かったが、私たちのように惨めな運命に翻弄された人が多かったと語った。

日本の家族は北朝鮮の実態が分かるようになっても、北朝鮮にいる家族のために話すこともできずに、彼らが必要とする生活必需品を送り続けた。

一昨年世を去った田さんの母は、こうした帰国事業の悲劇を知らせるために身を尽くし、母の‘孤独な闘い’は北朝鮮の人権染躪を告発する日本の市民団体を通じて続いている。