北朝鮮が中国東北の4番目の省になるのではないかと言われている中で、北朝鮮の市場の主導権を握っている華僑の役割が注目されている。華僑がいなければ市場が麻痺するとの声も上がっている。
現在、華僑は北朝鮮では新興の金持ちだ。当然、住民の羨望の対象だ。
新義州(シニジュ)市民のキム・チャンヨル(仮名)氏は最近、デイリーNKとの通話で、「新義州で大門に大きな『福』の字を付けた瓦屋根の家はすべて華僑の家」と述べ、「華僑が新義州では一等の金持ち」と語った。新義州は平壌と違い、アパートより瓦屋根の家が多い。特に華僑の住む瓦屋根の家は屋根も派手だ。
キム氏は「今、新義州の市場で取り引きされている生活必需品の9割程度が中国製」と語る。9割とは、薬草と一部の農産物を除けば、ほとんど全ての商品である。そのうちの半分以上を華僑が流通させるのだという。
キム氏はもし華僑が中国から生活必需品を持ちこまなければ、市場自体が打撃を受けると言い切った。それほど北朝鮮の市場で華僑の占める比重が高くなったということだ。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面同時に華僑は、中国に出入りしながら外部の情報を北朝鮮内部に伝達するメッセンジャーの役割も果している。2004年の龍川(リョンチョン)の爆発事故も、最初に華僑が携帯電話で中国に知らせたという話がある。このため、華僑の活躍が経済難を解決できない北朝鮮政権にとって薬にもなりうるし、また外部の情報の流入という毒になる可能性もあるとの相反する見方が存在する。
北朝鮮国内の華僑の数は?
中国の遼寧朝鮮文報が2001年に出した、北朝鮮側の資料を参考にした統計によると、第2次世界大戦直後、朝鮮半島にいた華僑の数は8万人だったという。このうち、6万人が北朝鮮に住んでいたが、中華人民共和国の成立と朝鮮戦争後にほとんどが帰国した。1958年には3,778世帯、1万4351人だった。
彼らは野菜の栽培、個人手工業、飲食業に営んでいたが、1950年代後半に北朝鮮が社会主義計画経済に完全に移行したことで経済権を失い、その多くが1980年代の初めまでに中国に帰国した。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面「遼寧朝鮮文報」は2001年の時点での在北朝鮮華僑の数をおおよそ6千人としている。半数以上が平壌在住で、残りは平安北道、慈江道、咸鏡道にそれぞれ約300世帯が暮らしている。
現在、平壌、清津(チョンジン)、新義州、江界(カンゲ)の4ヶ所に華僑高等中学校(11〜17歳、6年制)が、咸興(ハムン)など各道庁所在地に華僑小学校(7〜11歳,、4年制)がある。
1981年〜86年に清津の華僑中学校に通ったワン・オッキョン氏(新義州在住、仮名)は、「当時一年生に40人以上の生徒がいたが、今は5〜6人しかいない」と語った。最近は小学校だけ北朝鮮で終えて、中学校に上がるときに中国に送り出すのだという。ワン氏は「中国の大学に入るには、中国で中学校に通うと中国語も流暢になるし、私教育も受けさせられる」と語った。
食糧難の時期、中朝貿易で大金持ちに
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面北朝鮮の華僑はほとんどが1980年代の初めまでさほど裕福ではなく、北朝鮮の一般人と変わりがなかった。ところが、それ以降に靴下、タオル、手鏡、トランプカードなど中国から仕入れた商品を北朝鮮の路上で風呂敷を広げて売る商売に乗り出した。華僑が大儲けするようになったのは、1990年代に入って中朝貿易が本格的になった頃からだった。
現在、中国の丹東で十指に数えられる資産家のソン・クァンミ(仮名、52歳)氏は、貧しい華僑から一躍金持ちになり、成功した代表的なケースだ。清津で暮らしていたソンさんは1980年代初めに、いち早く中国との商売を始めた人物だ。
当時、ソンさんは結婚の礼物としてもらった時計を売って、商売の元金にするほど貧しかった。
ソンさんが大金を儲けた理由は金の密売だ。北朝鮮は金を国家の所有、すなわち金正日の’個人財産’であるとみなし、個人の金の取り引きを厳格に規制している。しかし、金鉱の労働者たちの間から密かに流出される金があり、また不正な方法で金をためる人が少なくなかった。特に80年代以後、北朝鮮経済が徐々に沒落し、持っていた金を密かに売る人が増えた。
このため、金の取り引きは中国と通じている極少数の華僑を介して隠密に行われた。北朝鮮で金を売る人は多く、買うという人はほとんどいないため、金を中国に密売すれば大きな市価の差益をあげることができた。
ソンさんは“北朝鮮にいる華僑の中で、60%があの時金の密売で大金を儲けた”と語った。
彼は華僑が大金を儲けることができる機会が二度あったと言った。最初は85〜89年までの金の密売で、二番目は95〜99年までの北朝鮮の大量餓死の時期(食糧難)だった。
ソンさんは“大量餓死の時期は、朝鮮(北朝鮮)であらゆるものが不足したから、生活必需品をすべて華僑たちが供給するようになった”と述べ、“当時食糧、布地、砂糖などを中国から大量に持って来て売れば、一度に100万元(韓国の1億3000万ウォン)を得ることもあった”と語った。
ソンさんはこの二つの時期を逃さずにお金を儲けて、現在知られている財産だけでも5000万元(韓国の60億ウォン相当)に達する金持ちになった。
華僑は中国に比較的自由に往き来することができる。また、中国語が上手で中国国内の人脈(親戚など)が多く、商売するのに最適の条件を取り揃えている。(下に続く)