DNKF_13519_295691_1421192688_i脱北、夫との出会い、別れ、そして韓国へ

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花屋が軒を連ねる韓国仁川の南洞区(ナムドング)のピリュ大通り。脱北者ホ・ソンヨン(仮名)さんが営む「仁川愛フラワー」はその通り沿いにある。オープンは2013年4月。始めて間もないが努力と真心で店を育てている。

ホさんが脱北したのは北朝鮮が「苦難の行軍(大飢饉)」の真っ最中である1998年、22歳の時だった。父が亡くなり家が傾きはじめ、貧しさと苦闘する家族を見て脱北を決意した。子供の頃から父はいつも言っていた。

「韓国に行けば腹いっぱい食べられる」

ホさんの心の中に自然と韓国への憧れが沸いた。

脱北して中国に着いてすぐに密告で捕まりそうになった。韓国人牧師の手招きでなんとか危機は逃れたが長い間田舎で身を隠しての暮らしが続いた。

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その後、畑仕事と工場での仕事で糊口をしのいだ。夏は朝5時に起きて日が暮れるまで畑仕事。冬は夜中の3時から夜8時まで工場で働いた。1日に15時間働いてももらえる給料はわずかな額。韓国に行くという夢は遠ざかるばかりだった。

地獄のような日々に希望の光が差した。知人の紹介で知り合った中国人男性と結婚したのだ。夫は彼女の不幸な身の上を誰よりも理解してくれた。そして妊娠もした。

しかし、中国社会が脱北者を見る目は冷たい。お腹の子供が大きくなって差別と偏見に苦しむことを考えると心が痛んだ。夫と何度も相談した末に、お腹に身ごもった子供と共に韓国へ行くことを決心した。

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北朝鮮を出てから実に6年も経っていた。

子供は脱北者が定着教育を受ける「ハナ(一つの意味)院」で出産した。韓国での暮らしが最初からうまくいくと思ってはいなかったが、すぐに大きな危機がやって来た。中国人の夫との結婚届を出せなかったため、未婚扱いにされて定着支援金が大幅に減額されてしまったのだ。先に韓国に来ていた妹夫婦と同一世帯扱いにされて住宅ももらえなかった。

しかし、不平不満を言う暇すらなかった。娘のために一銭でも多く稼ぐために必死になって働かざるを得なかった。昼は出前、保険や化粧品の営業、夜は食堂で働いた。睡眠時間は1日3?4時間だったが、娘のことを考えると辛くはなかった。

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そんなある日の夜、彼女は苦しくて目が覚めた。体はどんどんこわばっていく。1時間おきに痛みが襲ってきた。「死ぬかもしれない」そんな思いが脳裏をよぎった。翌朝、検査を受けるために大学病院に行った。すると医者に厳しく叱られた。こんなことになるまでなんで放っておいたのかと。肝硬変だった。

あの時のことを思い出すと今でもゾッとすると言う彼女。先日、「胸に腫瘍ができたんですが、幸い悪性ではなくて胸を撫で下ろした」と語った。

ポジティブシンキングで道を切り開く

花屋を始めようとした時、周りからは「無謀だ」と止められた。花屋の経験はなかったが、うまくやる自信があったので知人から花屋を譲り受けた。運転資金はなかった。あちこちで調べて信用保証財団の融資制度を知り、運転資金を確保できた。

お店をやりくりできる自信はあったものの、最初の2、3ヶ月は辛かった。

重い植木鉢を運んで腰を痛め湿布薬が手放せなくなった。配達用の車がなかったのでバイク便を利用せざるを得なかったが、コストは収入の10%に達した。ちょうどその頃、妹の夫から、自動車会社の「ギフトカーキャンペーン」の話を聞かされた。これは創業を目指す低所得者に車を貸し出したり、創業教育を受けさせてくれるものだ。

「締め切りまであと2日だったので準備する暇はありませんでした。面接で正直に自分の状況を話しました。苦労して花屋を買い取ったまではよかったけど、バイク便でコストがかかりすぎて余裕がないって」

それが功を奏したのか彼女は見事に車を勝ち取った。車種は「レイ」。トランクが広々としているのでフラワーバスケット3、4個が余裕で収まる。

車は彼女の新しい足となって仁川の街を走り回っている。

「請求書の配達をしていたので、仁川の地理にすっかり詳しくなりました。普通の人が知らない抜け道だって詳しいですよ」

花屋をはじめた時の辛い体験が今になって生きてきた。ポジティブに考えて道を切り開いてきたからだという。そう、苦しい時はいつもつぶやいて乗り越えてきたのだ。

「ポジティブに生きよう」と。